天山・雨山

天川登山口〜天山〜雨山〜上宮登山口〜天山〜天川登山口 2021/3/23

3/23(火)

外に出てみると暗かった。星がそこそこ見えていた。

4:57に自宅発。外気温3度。航続可能距離688km。

もう少し早く出るつもりだったが遅くなった。出来たら5時前には有明海沿岸道路に乗りたかったのだが。

三池港ICから有明海沿岸道路へ。空がわずかに白んでいた。

これまでは柳川東ICで降りて、神崎市を経由して道の駅 大和に行っていたが、そこまで行く途中の休憩のための寄り道で時間を食っていたので今回は道の駅 大和まで休憩を入れないことにした。3/14に大川東IC〜大野島ICが開通したので有明海沿岸道路を大野島ICまで行ってから道の駅 大和に向かった。

大川東IC〜大野島ICまでの開通で短縮できる時間は5分弱程度であまりメリットはないと思っていたが、実際に使ってみると大川東ICで降りてから県道18号で筑後川を渡る行程を省けるので意外と便利だし、楽に感じた。

大野島ICから県道18号までの道はわりと家があった。どう考えても何軒も立ち退きが必要だっただろうと思って、後でGoogleマップの航空写真で調べてみたらやはりそうだった。ICをもう少し西側に作れば立ち退きの軒数を減らせただろうにそうしなかったのは何か理由があるのだろう。

こんな時間なのに県道18号の早津江川を渡る橋の手前から少し詰まり気味。やはりこの道は柳川方面から佐賀市方面への幹線なのだろう。2022年度に大野島IC〜諸富ICまでが開通すればかなり楽になる。

県道285号、国道208号、県道333号、国道34号で国道263号へ。嘉瀬川の鉄橋の手前には川を渡したロープにつるされたコイノボリが沢山泳いでいた。

6:25に道の駅 大和着。走行距離66.8km、燃費24.4km/L、平均車速45km/h、走行時間1:29、EV走行距離22.8km(34%)、航続可能距離588km、外気温2度。高度34m。

物産館の前のプランターのチューリップがきれいだった。また、道の駅のまわりの桜の花がきれいだった。今年は例年より少し桜の開花が早かった。桜の花は佐賀市街から道の駅までの道沿いの所々に植えられていて、目を楽しませてくれた。

6:30に道の駅 大和発。

国道323号でも道沿いのサクラが目を楽しませてくれた。山の中にもヤマザクラが咲いていた。

今回は湧き水を汲むことが出来る場所はないと思っていたので湧き水を汲むための容器を持ってこなかったが、県道37号を走っているときに道沿いのどこかに湧き水があったことを思い出した。県道37号から鎌原への分岐には「鎌原の水」があるようだ。また、後で調べたら厳木ダムの近くに「佐用の湧水」があるようだ。

県道37号沿いの葛ノ尾から天山に登れることは知っていたが、葛ノ尾で九州自然歩道の案内板を見かけた。すぐそばには車を停めておけそうな場所もあった。だが、後で調べたら、ここからの九州自然歩道は七曲峠まで通っているが、荒れているらしい。小城市観光協会のページで入手した「天山散策マップ」の地図だと葛ノ尾から歩いて[33°20'42.4"N 130°10'08.8"E|33.345107, 130.169116]のあたりで県道290号へ合流、そこから県道290号を歩いて、[33°20'32.9"N 130°10'36.6"E|33.342477, 130.176819]まで行ってからそこから七曲峠まで山道らしいが少し荒れているらしい。昨年に天山周辺の九州自然歩道の標識が更新されたがこのあたりの道標も新しくなっているらしい。そう言えばFBSのヤマトホという企画で九州自然歩道歩いていたよなと思いだし見てみたが、県道290号までは農道を歩くが途中からは農地の脇の藪っている道を歩くようだ(YAMAPに活動記録(37日目)、Youtubeに動画(#18)あり)。

県道37号から分かれてスキー場までの道もその先の道もわりと走りやすかった。昨年に天山上宮駐車場へ行こうとして小城側から県道337号で上がっていって結局は通行止めで行けなかったことがあったが、川内の集落からの先の道が細かった。今後はあちらの道は使わないだろう。天山上宮駐車場へ行くときにもこちら側から行った方がはるかに楽そう。

スキー場の先で道を何かが林の中に走って逃げていったが、そちらの方を見るとキツネがいた。キツネを見るのは久しぶり。

スキー場から少し走ると道の脇にハクモクレン、レンギョウが咲いていた。

7:02に天川駐車場着。走行距離88.1km、燃費20.0km/L、平均車速43km/h、走行時間2:03、EV走行距離28.8km(33%)、航続可能距離552km、外気温2度。高度897m。

車を降りるとウグイスの鳴き声が聞えていた。

駐車場には弁財天の絵があった。

前に天山に登ったときには弁財天の祠のようなものは無かったけど、何で弁財天の絵があるのだろうかと後で調べてみたら「昔から天山は、霊山として弁財天様が住むといわれています。神秘・強運・ツキ・奇跡で夢をつかみ受験・就職の難関を突破し難病を癒しサワリを除き商売のピンチを抜け出し色々な悩みやトラブルが解決しますように手を四回たたいてください。らくがきするとばちがあたります。お山はハイキングコースです。」と書かれた案内の看板が以前は隣にあったらしく、弁財天に縁のある山ということらしい。

天川登山口〜天山

今回は天川登山口から天山往復ではもの足りないので、天川登山口から天山に登り、そのあと雨山に登り、雨山から車道へ降って車道で天山上宮登山口へ行って、再度天山に登り、途中から別の道で天川駐車場へ戻るという逆八の字コース。

登山口の標識によると山頂まで0.8kmとものすごく近い。ここまで近いとは思っていなかった。

寒の戻りで寒い日ではあったが、ここまで寒いとは思わなかった。少し風もあった。もう春だしジャケットもいらないと思ったものの念のために持ってきてよかった。ズボンはモンベルのマウンテンパンツを履いてきたがこれだと薄ら寒い。このズボンは適用温度は5〜20度と言ったところか。もう少し暖かいものを履いてくればよかった。

登山道沿いにはサクラの木があった。植えたものだろうか?

少し登ると分岐。道標には「天川駐車場 0.3km/天山山頂 0.5km/雨山山頂 1.3km」と書かれていた。

途中から道に少し水が流れている場所が出てきた。道も石の転がった道となり歩きにくくなった。寒いとは言っても氷が張るほどでは無いだろうと思っていたが、薄氷が張っている場所があった。道の脇には霜柱が立っている場所もあった。

道の脇には所々にツクシショウジョウバカマが花を咲かせていた。ツクシショウジョウバカマが咲いていたのは天川登山口〜天山の間で他では咲いていなかった。おそらく、他の場所はショウジョウバカマが生育できるほど土壌の水分量がないのだろう。

距離が短いこともあり、あっけなく山頂に到着。霞んでいて景色はいまひとつ。山頂で軽く食事と思っていたけど、寒いので山頂付近をブラブラして少し景色を眺めた後に雨山に出発することにした。

そう言えば、阿蘇惟直の墓の他に謎の墓があったよなと思ったので山頂を発つ前に見に行った。墓のそばの石板に彫られた家紋から前回来て最初に見たときは鍋島氏関係だと思った。だが後で調べ直したら彫られた家紋は「杏葉紋」に似た「抱き茗荷」だった。調べていくと「鍋島氏は後年、茗荷紋を併用」、「鍋島氏の家紋は杏葉紋だが、茗荷紋は杏葉紋と似ているので混同されている」との異なる記述を見つけ、結局ははっきりしたことはわからなかった。今回も後で調べ直したら、レファレンス協同データベースの『鍋島藩の家紋である「杏葉紋」について知りたい。』には『「だき茗荷紋」とは別であるが、しばしばこれに見誤られるのは杏葉に葉脈が入れられているためといわれる』とある。鍋島氏の家紋を鍋島茗荷と称していることがあるようだが、"鍋島茗荷"で画像検索すると出てくる画像はたしかに葉脈が入った杏葉紋だ。というわけで鍋島氏とは関係なさそう。一番目立つ墓石は摩滅して文字が読めないがそばにある石には「大正八」と読めた。多分石板の下に納骨されているのだと思う。

天山〜雨山

山頂から少し降りるとNo.115の道標。あれっ、この道標って500m毎に建っていたと思ったけど、天山の山頂から見て七曲峠側の道標って、山頂のすぐ近くにあったからこのNo.115の道標は近すぎない?と思った。地図で見てみるとやはり近い。No.115には天山 0.4km/笹原峠 11.9kmとなっていた。後で調べたら七曲峠側の道標はNo.116で天山0.1km/古湯10.8kmとなっていたのでやはり500m間隔のはずだ。どうやらNo.115の建っている位置が間違っているようだ。

山頂から15分ほどで鞍部の分岐。分岐の道標には「川内 晴気 バス停 0.5km/天山 山頂 0.5km/あめやま 0.3km/岸川バス停 6.4km」となっていた。ほんの少し離れたところに別の道標があったので行って見てみた。「車道 0.7km/天山山頂 0.5km」「岸川 6.4km/天川駐車場 1.3km」となっていた。近くには以下のように書かれた説明板があった。

センブリ

本州、九州にみられる多年生草本で、茎は 方形で稜があり、よく分枝する。茎、葉とも に紫色をおび、秋に茎の上方に白色で紫色の すじのある5弁花を多数つける。全草に苦み があり、千回振りだしてもなお苦いので、こ の名がある。葉や茎は健胃剤に用いられる。

鞍部から10分弱で雨山の山頂。山頂には石碑があったが、山頂を示すものではなく、「植林記念」と彫られていた。

山頂は風が弱かったのでここで景色を見ながら軽く食事。

雨山〜上宮登山口

雨山からの下りは足に優しい土の道。道の脇に桜の木があったが植えたものだろうか? 1本だけ葉を展開し始めていたが、花はついていなかった。ということはヤマザクラか。

少し歩くと車道に到着。道標があり、「雨山山頂 0.5km 天山山頂 1.3km/天川駐車場 2.4km/天山上宮駐車場 0.4km」となっていた。車道で0.4kmなら上宮駐車場はあっと言う間だ。

車道の天川駐車場方向へほんの少し戻った側にベンチがあった。ベンチがあるなら展望があるのだろうと思って寄ってみた。八幡岳が見えた。下の方に建物が何棟か固まってあるのが見えた。その時は工場か何かだろうと思ったが、後で調べてみたら多久市立東原庠舎中央校という小中一貫校だった。ベンチのそばには「林道袖山線 0.6km」と書かれた道標が建っていた。下の林道に降りる道があるようだが、ここの道は荒れているらしい。

車道の脇にヤマザクラが花を咲かせていた。花は咲き始めだった。雨山からの下りにあった葉を展開し始めていた桜もヤマザクラだったのだろう。

林道の脇にはスミレが花を咲かせていた。南面だけに暖かい。

上宮登山口〜天山

天山上宮登山口に「天山広域総合生活環境保全林」という案内板があったが、意外と天山周辺の歩道がしっかり書いてあった。

天山上宮駐車場にベンチがあったので眺めが良いのだろうと思って見に行った。小城の方が見下ろせて眺めが良かった。この眺めは山登りをする人にはいまひとつかもしれないが、山に興味がない人がドライブで上がってきて眺めを楽しむには十分だろう。

駐車場の端の方に「鎮國之山銅碑」。説明が書かれた石碑と説明板があった。説明板には何故か谷川岳の山バッジ。誰かの落とし物を誰かが目立つように付けておいた? 説明版には以下のように書かれていた。

鎮國之山銅碑

小城市出身の書家中林梧竹は富士山への思いが強何度も登山し富 士山にちなんで号の使丸に富士山の衣紋を施した被布の制富士 山を題材にした自作詩や水墨画の揮毫などもおこなってい

明治三一年(一八九八)梧竹七二歳のときに自信が書いた書鎮國之 の文字を陽刻した銅碑を富士山頂に建立し梧竹書の碑は全国に存在して おその多くは依頼されたものだこの銅碑は依頼によるものではな 建設許可の手続きや鋳造の注文は自分で行百人を超す協力者により山頂へ 運ばれたといわれていは隷は楷書とされの書体 は不明であ

厳しい環境と度重なる落雷のため銅碑は破損し倒れてしまっていた昭和 四二年(一九六七年)カルピスの創始者三島海雲氏によっ山頂の富士山本 宮浅間大社奥宮の鳥居脇に再建され再建と同時期に鋳造さカルピス株 式会社本社敷地内に設置されていた碑平成二六年(二〇一四)に小城市で 譲り受中林梧竹のふるさと小城を見渡せるこの地に移設し

平成二六年一一月 小城市教育委員会 

小さい鳥居が2つあり、小さい池と池の畔に石の祠があった。

池のまわりをグルッと1周。「天山山頂 0.9km/雨山山頂 0.9km」の道標の近くに「下山歩道」の道標があったが、藪ってそう。「天山広域総合生活環境保全林」にもこの歩道は書かれていなかったので廃道になっているかも。

さて登ろうかとしているときに池にニシキゴイ3匹居るのに気付いた。こんな山の中の小さな池にコイが3匹暮らせるほどの餌があるのだろうか?

道標には「天山山頂 1.1km 雨山山頂 0.9km」とあった。天川登山口からの山頂も近かったが、こちらからも近い。

歩き出しの道の脇にはハクモクレンが咲き始めていた。多分植えられたものだろう。

鞍部の分岐までは擬木の階段でステップには砂利まで敷かれていた。少し登ったところで暑くなってジャケットを脱いだ。

再度天山の山頂へ。10:10頃にサイレンが鳴って、危ないから気をつけろとか言うような放送をしていた。多分ダムの放流だろう。景色が霞んでいるのは朝と変わらず早々に下山開始。

天山〜天川登山口

もう氷は解けているだろうと思ったら、下りの途中で解けていない氷があった。

鞍部に降るまでにひとりの登山者とすれ違った。

鞍部の分岐から天川駐車場は道標だと1.3kmなので近い。分岐から少しの間は木立の中の藪に少しだけ戻りかけているような道だったが、途中からは草地の中のしっかりした道。草地の中の道は航空写真で見てもしっかり写っているだろうなと思ったが、帰ってから航空写真を見てみたらやはりしっかり写っていた。

登ってきた道を戻るのはいやだというだけの理由ででこちらの道で天川登山口に戻ることにしたが、この道からは雨山の姿が良く見えた。雨山の下の方を横切っている道が見えたが鞍部の分岐から車道へ降りる道のようだ。

鞍部の分岐から15分ほどで車道へ降りる分岐があった。道標には「車道 0.6km/ 天山山頂 0.8km 天川駐車場 0.7km/雨山山頂 0.9km」と書かれていた。

所々で道が泥でグチャグチャになっていた。こういう水が染み出している場所がある場所だから天山のこちら側に天山ダムがあるのだろうなと思った。

途中でアセビが花を咲かせていた。まだ咲き始めだった。

天川駐車場には九州自然歩道の案内図、「天山広域総合生活環境保全林」の案内板(現在地の表記以外は天山上宮のものと同じ)石碑、石碑の説明板があった。石碑の説明板は文字が剥げまくっていた。

読み取れた内容としては、以下のようなことが書かれていた。

阿蘇惟直卿(あそこれなおきょう)由来(ゆらい)詩碑(しひ)について

鎌倉幕府(かまくらばくふ)滅亡後、足利尊氏(あしかがたかうじ)は新政権に不満(ふまん)(いだ)反旗(はんき)(ひるがえ)し、大群を集めて京 都に上ったが果たし得ず、建武三年(一三三六)僅かな手勢と共に九州筑前芦屋 に(のが)れた。これを〓った〓熊本の菊池武敏(きくちたけとし)に〓早速阿蘇大宮司八郎惟直(これなお)(はか)り 〓進んだ尊氏(かうじ)を討つべく数万の兵を(ひき)いて筑前〓進め多々良浜に布陣(ふじん)した。 やがて合戦が始ま〓〓〓する〓〓建武三年三月今まで菊池阿蘇勢として参加し 〓〓〓兵が急に寝返(ねがえ)り、尊氏に味方(みかた)〓〓菊池〓阿蘇勢を()つ」さても不思議な 出来事であった。このため戦局は一転し、菊池勢は追撃(ついげき)を受け熊本に退(しりぞ)いたが 、特に(あわれ)れなるは阿蘇軍であった。 「太平記」は「阿蘇大宮司八郎惟直ハ多々良浜〓合戦デ深手(ふかで)()イ肥前ノ国〓 小杵山(おつきやま)ニテ自害シ〓」と記〓〓この小杵山は小城町祇園山(ぎおんやま)と言う説と天川の小 杵山〓〓の荊棘山(いばらやま)と言う説がある。腹切り石の伝説によると、阿蘇惟直は尊氏 勢に追われ事尽(ことつ)き〓〓荊棘山(いばらやま)の巨大石の上にて自害せしと(この腹切り石〓〓 七平方メートルの巨大岩が現存)遺言(いごん)に「阿蘇山の煙りの見える処に(ほうむ)るべし 」〓〓よって天山(てんざん)之嶺に葬らる。現在天山頂上の墓碑は大正十三年小城町晴気(はるけ) 〓青年会によって改立(かいりつ)され天空(てんくう)に聳(そび)〓ている。当時阿蘇惟直に(つか)えていた田久 保〓の〓先〓君はその後天山に土着し永住したという。後裔(こうえい)の田久保甚五五左エ(じんござえ) (もん)()(獅子ヶ〓侍大将(たいしょう))の〓縁である。田久保豊明先生は田久保家先祖の碑文 に()って先祖と深い関係のあることを知り、〓を(ひもと)くにつれ悲運(ひうん)武将(ぶしょう)惟直卿(これなおきょう)無念(むねん)生涯(しょうがい)にいたく心を打たれ左記の詩を作られました。 この先生の思いに会員一同は感動し〓〓を永く後世に伝えるべく、佐賀県豊明会 創立四十五〓年記念事業として、この地に詩碑を建立したものであります。

阿蘇惟直卿(あそこれなおきょう)

碑は天山に(そび)え〓(せき)(あき)らかなり   招承(しょうしょう)して幾百(いくひゃく)精兵(せいへい)(ひき)

(たたか)(〓〓)に利あらず 棘の(ばん)(〓〓)る   赫赫(かくかく)たる威勲(いくん)惟直卿(これなおきょう)

〓〓阿蘇惟直の説は「太平記〓鎮西〓〓松浦〓〓〓諸説がある。 平成十一年(一九九九)六月吉日              社団法人関西吟詩文化〓〓 佐賀豊明会詩〓建立実行委員会

※ 字が薄かったり剥げていたりで読み間違いが多少はあると思う

2023/4/10に天山に登りに来たら、この詩碑の説明板が新しくなっていた。

コースタイム

トラックログ

駐車場で帰る準備をしていると車が1台やって来た。夫婦らしいふたりが出発準備をして登っていった。そろそろ車を出そうとしているともう1台車がやって来て、軽装の人がさっさと登っていった。車は2台とも佐賀ナンバーだった。

11:24に天川駐車場発。

道の駅 厳木へ。県道37号は片側1車線でほとんど車は走っていないので走りやすかった。降りていく途中で作礼山や八幡岳が見えた。

厳木ダムの少し手前からサクラの花がきれいだった。ダムの周りには遊歩道があるようだ。

土地が平らになってきたなと思ったらすぐに道の駅 厳木の佐用姫像が見えてきた。

11:49に道の駅 厳木着。走行距離102.5km、燃費22.0km/L、平均車速41km/h、走行時間2:29、EV走行距離34.8km(34%)、航続可能距離523km、外気温14度。高度75m。

駐車場の斜面に植えられたヒマラヤユキノシタが花を咲かせていてきれいだった。

売店で牡蛎、あさり、湯がきわらび、タケノコの水煮、サラダドレッシング等を購入。ドレッシングはアムールというところのだが、何となくその名前に覚えがあった。前にこちらの方に来たときに看板を見た記憶があったが、多久と小城にあるカレー店で今回も帰りに看板を見かけた。

ここの道の駅に来る度に佐用姫像を近くで見ようと思いながら、見ていなかった。これまでは物産館で買い物を終えた時点ですっかり佐用姫像のことは頭から消えていた。今回は忘れずに見に行った。

近くに行ってみるとライトアップ用らしいライトがあった。ライトアップしたら夜はかなり目立つだろう。ここの佐用姫像を見たことが鏡山に登りに行くきっかけにもなった。佐用姫像は鏡山にもあったが、こちらの方は造形が微妙。

道の駅からは山が見えたが、位置的に作礼山ではと思って帰ってから調べてみたらやはり作礼山だった。

12:27に道の駅 厳木発。

国道203号は厳木多久有料道路をパスした。有料道路でない国道203号も道が悪いってほどでもないので有料道路の方を使うまでもない。唐津方面から来た車も牧瀬ICで降りて、有料道路をパスしているのが大半のようだ。厳木多久有料道路の無料化は2026年度らしいが、本当にそれまでに償還できるのだろうか?

羊羹を買うために小城へ。

12:48に桜月堂着。走行距離117.0km、燃費23.4km/L、平均車速41km/h、走行時間2:51、EV走行距離44.1km(38%)、航続可能距離506km、外気温16度。高度15m。13:03発。

道の駅 大和にも寄ることにした。

13:26に道の駅 大和着。走行距離129.6km、燃費23.9km/L、平均車速40km/h、走行時間3:16、EV走行距離52.4km(40%)、航続可能距離500km、外気温17度。高度33m。

鯉濃(レトルト、生)、刺身こんにゃく等を購入。

桜がきれいに咲いていた。オートキャンプ場はキャンパー専用の花見スペースと言った感じになっていた。オートキャンプ場は道の駅の駐車場から生垣で隔てられているだけなので少し味気ない感じではあるが、物産館の営業時間終了後は静かに過せそう。

14:00に道の駅 大和発。

佐賀の市街地に近いところではカーナビは往路と同じルートを提示したが、走ったことが無い道を走りたかったので国道263号から国道264号、県道54号へ直進した。

佐賀大は卒業式だったらしく、袴やスーツの学生が居た。

市街地を走ることである程度時間が余計にかかるのは予期していたが、カーナビの次の経由地への到着予想時間がジリジリと遅くなっていった。国道208号へ左折したら、交通量が多くなり、街中を走るのが嫌になってきた。少し走ったら道路標識に佐賀空港の文字が見えたので県道49号へ左折。これまで県道48号の海側を走っているときには佐賀市街方向からの道が結構走りよさそうだと思っていた。実際に走ってみると交通量の少ないまっすぐな道で走りやすかった。

県道49号で国道444号まで出た。前を走っていた軽トラが玉ねぎが入ったコンテナを積んでいた。道の脇の畑地で収穫をしていたが、これも玉ねぎだった。道の脇の畑は麦畑が大半だが、麦畑に混じって玉ねぎ畑が点在しているようだ。

大野島ICから有明海沿岸道路へ。大野島ICから乗る車は少なく、ほとんど車が走っていなかった。筑後川を渡るときに左側に筑後川昇開橋が見えた。

15:06に道の駅 みやま着。走行距離169.3km、燃費25.6km/L、平均車速39km/h、走行時間4:23、EV走行距離75.3km(44%)、航続可能距離460km、外気温18度。高度8m。

いつものごとく海産物、海産物加工品等を購入。

15:28に道の駅 みやま発。

国道443号で遅い車の後ろになった。スピードも遅いしトラックのような大きな対向車が来るとブレーキを踏むし、信号の手前(青信号でも)やカーブでもブレーキを踏むのでお年寄りかと思ったが車体にクローバーマークは付いていなかった。付けていないと思ったら、少し近づいた時に車内にクロバーマークを付けているのが見えた。ガラスにクリアタイプでないフィルムを貼っているのに車内にクローバーマークをつけないでくれ。遅くなることを覚悟したが、山川で国道443号から離れていってくれた。

16:22に自宅着。走行距離200.3km、燃費26.9km/L、平均車速38km/h、走行時間5:17、EV走行距離96.8km(48%)、航続可能距離435km、外気温18度。車の総走行距離30,760km。

いつもは佐賀方面に行くと帰りに寄り道ばかりしていた。そのせいで帰宅が遅くなっていたので今回はあまり寄り道をしないで帰ってきたため早く帰ってくることが出来たし、かなり運転が楽だった。

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