鏡山
(領巾振山(ひれふりやま))

古代の森会館〜鏡山登山口〜鏡山〜虹の階段〜古代の森会館 2020/10/26

3月に作礼山に登った帰りに寄った道の駅 厳木に大きな佐用姫像があった。帰ってから佐用姫について調べているうちに佐用姫が領布を振り続けたという鏡山(領巾振山)について知った。『分県登山ガイド』には車の駐車場所として古代の森会館、武道館、虹の階段登り口があげられていたが、「登山者専用の駐車場ではないので迷惑駐車は厳禁」とあった。登山中の長時間の駐車はどう考えても迷惑駐車だと思うので駐車場所として不適だと思った。だが最近になって再度鏡山について調べてみたら、登山者は古代の森会館か武道館に停めるように案内する看板が登山口の近くにあることを知った。これらの場所に駐車してもかまわないとわかったので登りに行くことにした。

10/26(月)

鏡山は上まで車で行ける観光地なのでいつもの45Lのザックは大げさだと考えて、35Lのザックに前の日に荷物を詰めた。35Lのザックだと10kgで軽くなったが、パンパンで、これだと使い勝手が悪いと当日になってから45Lのザックに荷物を詰め直した。そのせいで12kgと少し重くなった。

外に出ると極薄い雲がかかっているようで星の見え方が少なかった。オリオンの左側にはシリウス、右にはアルデバラン、東の空には金星が輝いていた。

前々回の雷山・井原山では目的地のマップコードをメモし間違えて、目的地をマップコードでセットできなかった。だいたいの場所が分かっているということで適当にセットしたのだが予定したルートと違う道で登山口まで行くはめになった。今回はその失敗を踏まえ、前日に目的地を車に設定しておいた。その時にカーナビは目的地まで110km位で4:05位かかると告げた。4時間超は遠いがGoogleマップの経路検索だと2:30位だったので2:30程度で行けるだろう。でも、日帰りで行くには少し遠めであることには変わりない。

4:58に自宅発。外気温10度。航続可能距離783km。

ルートとしては厳木経由、神崎市経由、佐賀市経由の3つで、厳木経由のルートは一番短いらしいがこのルートは復路で使うことにした。佐賀市経由、神崎市経由は距離も所要時間はほぼ同じらしいが県道21号とその先の北天グリーンロードは走ったことが無く、走ってみたかったので神崎市経由で行くことにした。

荒尾の県道126号から国道389号へ入るT字路の交差点で信号待ちをしているときに国道389号の方からタンクローリーがやって来た。おそらくタンクローリーは有明海沿岸道路へ向かだろう。だいたいこの手の車は飛ばすかゆっくり走るかのどちらかだ。遅いようなら有明海沿岸道路で後ろを走りたくないので、389号を走っている間に抜こうと思っていた。だが、このタンクローリーは速かった。警官が居たら捕まるようなスピードで走っていた。

三池港ICで有明海沿岸道路へ入る手前で信号待ちをしているときに脇道からプリウスがやって来てタンクローリーの前に出た。プリウスもタンクローリーも有明海沿岸道路へ入った。あのプリウスはずっとタンクローリーに張り付かれて走ることになるので気の毒だなと思った。プリウスはタンクローリーにあおられ気味に走ることになっていたが、矢部川の橋の2車線区間でタンクローリーがプリウスを抜かした。こちらも一緒に抜かした。プリウスは柳川東ICで有明海沿岸道路を降りて、道の駅 おおきに向かうためにこちらが左折するまですぐ後ろを走っていたので、そんなに遅いというわけでも無かった。

5:54に道の駅 おおき着。走行距離44.8km、燃費25.9km/L、平均車速47km/h、走行時間0:57、EV走行距離13.6km(30%)、航続可能距離737km、外気温10度。高度5m。

有明海沿岸道路を走っているうちに東の山の端が白んで来ていた。道の駅からは東の空に夜明け前の山が良く見えた。御前岳・釈迦岳らしき山が見えたので帰ってから調べてみたが、やはりそうだった。東の方の山は良く見えていたが、脊振山方面の山は霞んでいた。

6:02に道の駅 おおき発。

脊振山方面が霞んでいるのはガスっているせいかと思ったのだが、道の駅から少し走ると畑地から霧が立ち上っていた。この霧のせいで霞んで見えていたようだ。場所によって霧が立ち上っていたり、全く立ち上っていなかったりと差があったのは畑地の土壌の差だろうか。

食料は前日に買ってあるので寄る必要は無かったのだが、おやつ程度は欲しいということでトライアルに寄ることにした。

6:18にトライアル 千代田店着。走行距離55.8km、燃費25.7km/L、平均車速45km/h、走行時間1:15、EV走行距離48.3km(33%)、航続可能距離726km、外気温10度。高度3m。

おやつには三幸製菓の"堅くてうまい柿の種 黒胡椒味"が欲しかったのだが、無かったのでおやつは無し。そう言えば前回寄ったときにもこれはなかった。

駐車場からは脊振山方面の山や御前岳・釈迦岳が良く見えた。平野の中なのでこのあたりは意外と山が良く見える。

6:34にトライアル 千代田店発。

県道21号は緩いカーブの連続で今一つスピードが出せなかった。吉野ヶ里から県道48号経由で国道263号に入った方が速かっただろうなとは思ったけど、県道21号でスピードダウンすることは地図で道を調べていたときから想定はした上でこちらを選んだ。

県道21号に入ってから唐津市街に近くまでコンビニは無かった。そろそろ平地で海が近そうだなと思ったあたりでファミリーマートがあった。国道323号はカーブが多く、スピードが出せなかったが、これは想定はしていた。

途中で「エゾシカの肉あります」の看板を見かけた。何故にシカでなくエゾシカと疑問に思った。看板のそばには肉を売っているような店は無かった。帰ってから調べてみたらGoogleストリートビューにもしっかり看板が写っていて、看板には電話番号が書かれていた。看板に書いてあった電話番号から調べたら、看板の場所にある保険代理店の番号だった。何らかのつてがあってエゾシカの肉を入手できるのだろう。

山に登る前にトイレに行っておこうということでコンビニへ。

7:42にローソン 唐津浜玉町店着。走行距離107.3km、燃費25.8km/L、平均車速44km/h、走行時間2:25、EV走行距離43.8km(41%)、航続可能距離696km、外気温12度。高度4m。

トイレを借りるだけってのは無しなので何を買おうか迷ったがフリスクを購入。フリスクは金属ケースに入ったものがあり、これが詰め替え用のタブレットを買ってきたとき再利用して使うのに便利だ。だが、1年くらい使っていると壊れるのでこう言うときに予備として買っておくのも良いかも。

7:55にローソン 唐津浜玉町店発。

8:03に古代の森会館着。走行距離111.3km、燃費25.6km/L、平均車速43km/h、走行時間2:34、EV走行距離45.1km(41%)、航続可能距離695km、外気温11度。高度2m。

古代の森会館には年配の人たちが自転車やら車でやって来ていた。どうやら脇の広場でマレットゴルフの類のスポーツをやるためらしい。車を停めるのは武道館の方が良かったかも。

Googleストリートビューにも写っていたけど、古代の森会館の入口には「利用者以外の駐車はご遠慮ください」とあった。でも、鏡山の登山口の近くには武道館か古代の森会館に停めるように看板があるのだから鏡山の登山者も利用者ということでかまわんのだろう。

古代の森会館には鏡中学校跡という碑があった。元は中学校だった建物を遺跡からの出土品の展示に使っているようだ。

古代の森会館〜鏡山登山口〜鏡山展望台

古代の森会館の交差点の渡ったところで、武道館から女性2人がやって来た。歩く格好ではあるが、軽装なので地元の人が散歩に行くのだろう。この2人とは登山口の少し先まで抜きつ抜かれつだった。

歩いているとマンホールが目に留まった。虹の松原の絵柄だった。

10分弱歩くと登山口へ向かう道の入口に到着。鏡山の登山口へ向かう道であることの案内は何もないが、「鏡山登山の皆様へ 車道上の駐車は、交通支障及び騒音により近辺に迷惑がかかりますので駐車しないようお願いします 古代の森会館・武道館へ駐車して下さい 唐津市」と書かれた看板があった。

登山口からはヒノキの植林に常緑広葉樹の混じった森。山の上の遊歩道までは、コンクリの簡易舗装、部分的に舗装された砂利道、砂利道の半分がコンクリの簡易舗装、コンクリの簡易舗装の細い道、砂利道と変化して、最後の方は階段となった。

登っていくと山頂1500m 登山口600mという標識があった。どうやら林道の始まりが登山口ということのようだ。途中に角柱があり、「民有林道 梅谷線起点」、「管理者 唐津市長」、「延長 一七一〇m 幅員 三m」と書かれていた。

道の脇にはノコンギクやツワブキが花を咲かせていた。上がるにつれて、道の脇にカエデが生えていたが、これは植樹された木だろう。

さよ姫桜の手前の道の脇はスイセンが葉を伸ばしていた。その少し上にキツネノカミソリらしき葉もあった。スイセンはさらに上の方にも生えていたが、これは人が植えたものだろう。

上の方で砂利道になったあたりからは道の脇に桜が植えられていた。

コンクリの階段を登っていくと前方と前方右側に鳥居が見えてきた。とりあえず右の方に行ってみた。鳥居の神額には「子車稲荷大神」と書かれいた。ほんの少し歩くと小さな社とボロボロの建物があった。

元の道に戻り、ほんの少し登ると右側に石仏があり、台座には十一面観音と書かれていた。すぐそばの道の左側に頂上まで100mとの標識があった。

鳥居を2つくぐると草地に出た。アンテナが立っているのが見えた。草地の中をほんの少し歩くと舗装された遊歩道にたどり着いた。

遊歩道をほんの少し歩くと左側に「鏡山の昆虫」、「鏡山のチョウ」、「鏡山の野鳥」という英語と日本語を併記した案内板があった。それぞれの案内板の日本語の説明は以下の通り。

鏡山の昆虫

鏡山の池では南方系のタイワンウチワヤンマ(6〜9 月)や北方系で成虫が越冬するホソミオツネトンボ(9 〜5月) や深紅のショウジョウトンボ (6〜9月) な どが飛び交い松林ではムーゼムーゼと鳴くハルゼミ (5〜6月) や淡い金色の毛が覆うウバタマムシ(6〜 8月)地表では飛ぶことが出来ないオオオサムシ(年中) や赤銅色のヒメオサムシ(8〜10月)が歩いています。

林では樹液を吸うオオスズメバチ(4〜11月)やカ ナブン (6〜9月) が止まり、空には金属光沢のタマ ムシ(6〜8月)が飛び、草原ではスズムシやマツムシ (8〜10月)が秋の夜を歌い、夜の外灯にはヒラタク ワガタ (6〜8月) やヤママユ(8〜9月) などが飛 来しています。

ゆっくり散策しながら植物の葉裏樹木の幹地表面 や石の下を観察してみてください。

鏡山のチョウ

日本にはチョウが約300種(土着種と偶産 種)、佐賀県には約100種ほどいるといわれ ており、鏡山ではツツジの満開のころには ナミアゲハの群飛やミヤマカラスアゲハの飛 来をみることができるその他には、(はね)の美 しいアサギマダラ、ジャコウアゲハ、アオス ジアゲハなど約64種が確認されているまた 南方からの季節風や台風に乗って渡ってき た珍しい(めい)チョウなども確認されている

鏡山の野鳥

鏡山は野鳥の観測スポットとして知ら れており多くの愛好者が訪れる留鳥で はトビキジバトヒヨドリウグイスシジュ ウカラメジロハシボソガラスなどが見られ 秋の渡りのころには鏡山を通過するハチクマなど の猛禽類、木立にはホトトギスの仲間のツツ ドリや、オオルリ、エゾビタキなどのヒタキ 科の鳥が見られる。冬はツグミ科のトラツグ ミやシロハラホオジロ科のミヤマホオジ ロなど多種の野鳥を見ることができる。

案内板から少し歩くとさよひめ茶屋があり、自動販売機が置かれていた。自販機があるあたりがいかにも観光地らしい。

茶屋があるあたりは舗装された広場になっており、佐用姫像、2つの歌碑、「玄海国定公園 鏡山」とかかれた碑があった。距離からいって途中にあった道標の頂上はここを差しているようだ。道の駅 厳木にある佐用姫像は美女だがここの佐用姫像は造形が微妙でお世辞でも美女とは言えない。

佐用姫像には以下のような説明が書かれていた。

  松浦佐用姫

日本の三大悲恋物語といわれる松浦地方に伝わる伝説が、 「松浦佐用姫」の物語です。古代、朝廷の命令で朝鮮半島の 任那、百済の救援に派遣された青年武将大伴狭手彦は、停泊 地である松浦の地で土地の長者の娘「佐用姫」と恋に落ちま す。やがて、出帆の時が来て、別離の悲しみに耐えかねた佐 用姫は鏡山に駆け登り、軍船にむかって身にまとっていた領 巾を打振りました。それでも名残はつきず、佐用姫は山から 飛び降り、呼子加部島まで追いすがったものの、すでに船の 姿はなく、悲しみのあまり七日七晩泣き続け、ついに石に化 したというものです。

この物語は、万葉の歌人たちにも数多く詠まれるものとな り、以後詩歌や能などの文学や演劇の題材にもなりました。

鏡山はこの故事から「領巾振山」と呼ばれるようになった といいます

  平成十四年三月建立

贈 唐津レンボーライオンズクラブ

山上憶良の歌碑には以下のように書かれていた。

此の領巾振山(ひれふりやま)は、松浦佐用姫(まつらさよひめ)ゆかりの山と して、万葉時代から歌にも()まれ親しまれて 来ました。山上憶良(やまのうえのおくら)のこの歌が其の一つ。 大伴狭手彦(おおともさてひこ)の船出に夫恋(つまこ)う佐用姫の女心をに じませています。

揮毫は書家・野田梅雄(号紫城)氏にお願い しました。

  昭和六十一年十一月吉日建立

松浦文化連盟 

山上憶良の歌碑の脇には英語と日本語で説明が書かれた説明板があり、日本語の説明には以下のように書かれていた。

『行く船を 振り留みかね 如何ばかり   恋しくありけむ 松浦佐用姫』

ゆくふねを  ふりとどみかね  いかばかり こひしくありけむ  まつうらさよひめ

山上 憶良

青年武将・大伴狭手彦と、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山に駆け登り、軍 船に向かい身にまとっていた領巾を打振りました。それでも名残はつきず、佐用姫 は山から飛び降り、呼子加部島まで追いすがったものの、すでに船の姿はなく、悲 しみのあまり七日七晩泣き続け、ついに石に化したといいます。

  松浦文化連盟 建立

昭和天皇の歌碑の脇には英語と日本語で説明が書かれた説明板があり、日本語の説明には以下のように書かれていた。

『はるかなる 壱岐は霞みて   見えねども  渚美し  こ乃松浦潟』

はるかなる  いきはかすみて   みえねども  なぎさうつくし  このまつうらのがた

昭和天皇陛下歌碑(生没年:1901−1989)

昭和 36 年 4 月、昭和天皇陛下が唐津市に訪れた際に詠まれた 和歌です。

広場の海側の端に2階建ての鏡山展望台があった。まず2階に登ってから1階へ。1階には方位盤があった。方位盤に載っていた笛岳、城山は知らなかったので調べてみたが、笛岳は樫原湿原の近くにある山で樫原湿原と併せて登る人が多いようだ。樫原湿原の近くには亀岳という山もあり、この山も樫原湿原と併せて登る人が多いようだ。城山は二丈岳が城跡で城ヶ岳とも呼ばれるそうなので二丈岳の事らしい。(唐津市浜玉町に城山という377.6mの山がある)

展望台の1階には「鏡山案内図」があり、鏡山、虹の松原、佐用姫伝説の説明が日本語と英語で書かれていた。日本語の説明には以下のように書かれていた。

鏡山

「原始・古代より、傘の形をした秀麗な山そのものが「神の山」として尊崇(そんすう)されていました。

6世紀、朝鮮半島に渡海する大伴狭手彦(おおとものさてひこ)を、山頂で領巾(ひれ)を振って見送った松浦佐用姫(まつらさよひめ)の故事から領巾振山(ひれふりやま)とも呼ばれていましたが、神功皇后(じんぐうこうごう)三韓征伐(さんかんせいばつ)の降りに山頂に鏡を(まつ)ったことから鏡山と呼ばれるようになったともいわれています。標高284mの山頂にある展望台からは、唐津湾の雄大な景観が楽しめます。

虹の松原

唐津藩の初代藩主となった寺沢志摩守広高(てらさわしまのかみひろたか)は潮風や飛砂(ひさ)から街道や村々、田畑を(まも)るために、唐津湾の砂丘に黒松の植樹(しょくじゅ)を行いました。

江戸時代当初は、松原の長さが約8キロ近くあったために、「二里の松原」と呼ばれていましたが、江戸後期の19世紀前半頃より、「虹の松原」と呼ばれるようになりました。

現在、約100万本の黒松が繁殖し、日本三大松原の一つと言われています。

佐用姫伝説

6世紀の宣化天皇(せんかてんのう)の時代、朝廷(ちょうてい)の命令で、朝鮮半島の戦乱から「任那(みまな)」を救済するために、軍隊を(ひき)いて唐津地方にやって()大伴狭手彦(おおとものさてひこ)は、篠原村の佐用姫(さよひめ)と恋に落ちました。

狭手彦(さてひこ)朝鮮半島(ちょうせんはんとう)渡海(とかい)する際に、別れを()しんだ佐用姫(さよひめ)は、鏡山に登って軍船が消えるまで領巾(ひれ)を振り続け、以後「領巾振山(ひれふりやま)」と呼ばれるようになったといわれています。

その後佐用姫(さよひめ)は、鏡山山頂の「蛇池(へび)」で亡くなったとも、加部島(かべしま)(唐津市呼子町)まで船を追いかけ、ついには、石になったとも言われています。

展望台の海側にはテラスが突き出していた。テラスは展望台の1階部分より低いが海側に突き出ているので景色が良かった。立石山、十人坊山 浮岳、女岳、羽金山、井原山、金山、黒髪山、虹の松原、唐津城、唐津湾の島々などが見えた。

風力発電の風車が2箇所見えた。片方は2基、もう一方は5基見えた。2基の方は唐津市湊発電所と唐津市相賀発電所らしい。5基の方は肥前・肥前南風力発電所(肥前が8基、肥前南が12基)か鷲尾岳風力発電所(全6基)らしい。

方位盤には作礼山、八幡岳が載っていたが、テラスからは見えないので後で展望台の上から見ようと思っていながら見るのを忘れた。でも木が邪魔でそちら方向は見えなかったように思う。

山頂からは筑肥線の電車が見えたり、音が聞えてきたりでなんとなくのどかな雰囲気だった。

鏡山展望台〜ひれふり展望台

園路をのんびりと鏡山神社に向かった。途中の蛇池を佐用姫橋で渡ると鏡山公園の駐車場。

駐車場の端にはニホンヒキガエルの案内板と高浜虚子の歌碑があった。ヒキガエルの案内板は立体のヒキガエルの模型が貼り付けられているという力作。蛇沼でヒキガエルが繁殖しているのだろうが、何故ここまでの力作にしたのだろうか。

ニホンヒキガエル

大きさ

成体は80〜176mmであるが、普通は150mm以下である。

体色

背中は茶褐色(ちゃかっしょく)黄土色(おうどいろ)赤褐色(せきかっしょく)であり、目の後ろから脇腹(わきばら)にかけて赤い紋様(もんよう) が入る固体もいる。

生息環境

山麓(さんろく)地帯から山間部の雑木林(ぞうきばやし)に生息する。

鳴き声

クックッ・クックックックッと少し高い声で不規則に鳴く。

卵とオタマジャクシ

繁殖期(はんしょくき)は1月〜3月。小雨の夜、池、湿地(しっち)等で産卵(さんらん)する。卵塊(らんかい)はひも状で、 6,000〜14,000個の卵が入っている。 ふ化したオタマジャクシは小型で、体色は黒一色である。群れをなして行動し、 プランクトン、水中にある腐った葉、動物の死骸(しがい)等を食餌(しょくじ)する。毒を有する ために魚類には捕食(ほしょく)されない。1〜3月で変態(へんたい)して上陸する。

食餌

ミミズ、オサムシ等の地表昆虫類、サワガニ等をよく捕食し、時にはヘビも 捕食する。

高浜虚子の歌碑の脇には英語と日本語で説明が書かれた説明板があり、日本語の説明には以下のように書かれていた。

『浮草の 茎の長さや 山の池

うきくさの  くきのながさや  やまのいけ

高浜 虚子(生没年:1874−1959)

この九は昭和3年、虚子が、虹の松原で下車して鏡山(領巾振山) に登った折りに読んだ句です。        

松浦文化連盟建立

駐車場を横切り鏡山神社へ。駐車場を横切った先に山上憶良の歌碑があった。

山上憶良 

麻都良我多佐欲比売能故何 比例布利斯夜麻能名乃尾夜 伎々都々遠良武

孝書 

※ 「売」は実際には異字体が書かれていた。

歌碑には次のような説明が書かれていた。

「まつらがた さよひめのこが ひれふりし やまの なのみや ききつつおらむ」万葉集にのっている山上 憶良の歌。揮毫は万葉学者で文学博士の犬飼孝士にお ねがいしました。

昭和60年9月27日建立

松浦文化連盟 

鏡山神社の脇にも五足の靴の歌碑があったけど、摩耗していて良く読めなかった。脇に御影石の説明板があったけど、これは石が光ってよく読めなかった。

社殿の北の方に白玉神社参道と案内板があったので、まずは白玉神社に行ってから、戻って来た後に鏡山神社に行くことにした。道にはいくつも鳥居が建っていた。鳥居には奉納者が書かれていたが、なんとか丸というのがいくつかあった。神額には白玉神社、白玉大明神、荒熊大明神、福徳稲荷大明神などと書かれており、複数の神を祀ってあるらしい。途中で右方向へ向かう道と鳥居があったが、まずは白玉神社に行くことにして、まっすぐ進んだ。

左に降りていく道があり、社が見えたので降りてみた。社の中には荒熊稲荷大明神と書かれた幟があった。中には他に鏡が安置されていた。

もとの道に戻り、進んでいくと黒岩大神と書かれた神額の鳥居があり、その先に白玉稲荷大神の社があった。参道を歩き出したときには白玉神社の先には道がないものと思っていたが、道があったので進んでみた。進むと園路にたどり着き、展望台っぽい場所にでた。ここには案内板もあったのでこれが「ひれふり展望台」だと思った。だがこの後にここがニセ「ひれふり展望台」だったことに気付いた。ここからは虹の松原のあたりしか見えず鏡山展望台と比べると展望は今一つ。虹の松原の英語と日本語で書かれた案内板があった。日本語の説明は以下の通り。

白砂青松(はくさせいしょう)」の美しい虹の松原へ

虹の松原は、三保(みほ)の松原(静岡県静岡市)、気比(けひ)の松原(福井県敦賀市(つるがし))とと もに日本三大松原の一つであり、国の特別名勝(とくべつめいしょう)玄海国定公園(げんかいこくていこうえん)に指定され、防風 保安林、景観資源、散策(さんさく)の場としてとても重要な場所です。

17 世紀のはじめに初代唐津藩主寺沢志摩守広高(てらさわしまのかみひろたか)によって、農地を潮風や飛砂(ひさ)か ら守るために植林された森です。

かつては、松葉(まつば)を燃料として使うために、地元の人々によって頻繁(ひんぱん)に松葉かきが 行われていたため、白砂青松の状態が保たれていましたが、近年の私たちの生活の変 化により松葉かきが日常的に行われなくなりました。そのため、松葉が堆積し、土の栄 養分が多くなり、雑草や広葉樹が生い茂ってきました。

白砂真央松の虹の松原を復元するために、県民・CSO(市民社会組織)・行政などが 参画した虹の松原保護対策協議会が中心となって、平成 19年より、虹の松原の保全 や再生に向けての活動を行っています。

この活動により美しい白砂青松の虹の松原が再生し、特別名勝としての景観(けいかん)を取 り戻し、海岸防風林として機能することはもちろん、自然体験の場として活用され ることを目指しています。

地元では先人から引き継いだクロマツ林を消失させることなく、かけがえのない 財産として活用し、次世代へ引き継ぐためのボランティア活動(松葉かき)が行わ れています。

ニセ「ひれふり展望台」の次にはすぐ南側にある佐用姫神社へ行った。

佐用姫神社には以下のように書かれた説明板があった。結構新しく建立された神社だった。

佐用姫神社建立にあたって

(いにしえ)より広く今に伝わる佐用姫(さよひめ)伝説の舞台は卑弥呼(ひみこ)邪馬台国(やまたいこく)が 滅び、大和朝廷が国を治めた六世紀の古墳時代にあたります。大和朝廷は 高句麗と戦い朝鮮の任那に日本府を設けます。その防衛に朝廷より 派遣されたのが大伴狭手彦(おおとものさてひこ)で、五三七年の朝鮮出兵にこの地に逗留し そのお世話をした豪族の美しい娘佐用姫(さよひめ)と結ばれました。

万葉集や世阿弥の能などにも謡われ、あまねく語り継がれた二人の 愛が如何に素晴らしいものだったか、ここに改めてこの深く大きな愛を今に 寿(ことほ)永遠(とわ)(たてまつ)ろうと、佐用姫(さよひめ)狭手彦(さてひこ)の出陣を領巾(ひれ)を振り続けて 見送ったこの領巾振山(ひれふりやま)山頂に建立することとなりました。

悠久の歴史とロマン溢れるこの豊穣の地で佐用姫(さよひめ)の清らかな会いに 包まれたひと時を過していたければ幸いです。敬白

  二〇一二年(平成二四年)三月二日

佐用姫神社の会

神社には箱があって、そこには「私たちはあまねく神乃愛の力を授かっています あなたの夢・ロマンを記し捧げて下さい 毎月神前にてご祈願いたします」と書かれていた。

佐用姫神社から鏡山神社へ戻る園路で2人のマウンテンバイクの人を見かけた。車で上がって来れるところだからマウンテンバイクに乗りに来る人もいるのだろう。

鏡山神社へ戻る園路の右側の3mくらい林の中に鏡山の二等三角点があった。右側の方を気をつけて歩いていればまず見落とさないだろうが、注意していなかったので見落としかけた。

鏡山神社を参拝。社の前には狛犬では無く狛狐があったので、ここもお稲荷さんだ。ここにも社の中に鏡が安置してあった。

再び白玉神社参道へ。左に行く道があった場所は良く見るとすぐに道が途切れていた。どうやら元は社があったようだが、無くなってしまったようだ。参道を引き返し、虹の階段の方へ向かった。途中の佐用姫神社の近くの草地にベンチがあったのでそこで10分ほど休憩兼食事。実は登り始めの頃から少し空腹を感じていたのだが、面倒なのでそのまま車に戻ってから食事を取ろうと思っていた。でも、ベンチがあったので考え直して食事をすることにした。

虹の階段へ向かう途中で「ひれふり展望台」と書かれた道標があったので、佐用姫神社の北側の展望台がニセ「ひれふり展望台」だと気付いた。というわけでひれふり展望台へ向かった。

ひれふり展望台からの景色は良かったけど、鏡山展望台の方が少しだけ景色が良かった。鏡山展望台の方は羽金山のアンテナの基部の方まで見えていた気がした。カメラのホワイトバランスの設定が何かの拍子に変わってしまいここから後の写真が全滅。フィルムカメラの頃の癖が抜けずにシャッターを押した後には何もしないのがまずかった。シャッターを押した後に液晶画面を見る癖をつけなければ。

「鏡山案内図」が3枚あり、1枚は鏡山展望台と同じもの。

玉島神社

古代、朝鮮半島に遠征(えんせい)したといわれる神功皇后(じんぐうこうごう)祭神(さいじん)とする神社です。

神功皇后(じんぐうこうごう)が遠征の際、玉島川に釣糸(つりいと)()れて戦勝(せんしょう)(うら)ったと伝わっています。

社殿の西側には神功皇后(じんぐうこうごう)釣竿(つりざお)に使われたといわれる竹群が残っています。

垂綸石(すいりんせき)

神功皇后(じんぐうこうごう)戦勝(せんしょう)(うら)う釣りをされたときに立たれた石で「御立石(みたていし)」・「紫台石(しだいせき)」などとも()ばれています。本来、垂綸石(すいりんせき)は玉島神社にありましたが、新しくできた万葉垂綸石(まんようすいりんせき)公園に場所を移し、玉島川を詠んだ万葉集(まんようしゅう)歌碑(かひ)とともに(いこ)いの場所となっています。

諏訪(すわ)神社 浜崎祇園(ぎおん)

唐津市内浜崎のマムシ()けで有名な諏訪神社の境内(けいだい)にある祇園社(ぎおんしゃ)疫病退散(えきびょうたいさん)五穀豊穣(ごこくほうじょう)祈念(きねん)して毎年7月海の日を迎えた後の土日に奉納(ほうのう)される東・西・浜の3地区による山笠(やまがさ)行事で江尾d時代中期より行われていたと伝えられています。(やかた)や人形が飾りつけられた豪華絢爛(ごうかけんらん)な高さ約15mの山笠を、締め込み姿の男衆(おとこしゅう)が諏訪神社から()きだし、街中を巡幸(じゅんこう)し夜遅くまで街を練り歩きます。

大島

明治時代に鉄道により志摩と陸が繋がった大島地区。 ここからは主に石炭が運び出されていました。昭和20年代にはさらに増加する石炭の取扱量に対応するため、石炭ふ頭としてふ頭が整備されました。現在では、石炭にかわって砂利・砂を取り扱っており、九州でも常に上位の取扱量を誇っています。また、石油やLPGを取り扱っており、エネルギー供給基地としての重要な役割も果しています。

高島

高島は、唐津城の北北東側会場2kmに浮かぶ島です。島の大半が常緑樹の自生林でおおわれ、山頂の展望台は昔魚見台(うおみだい)として利用され、天気の良いときは遠く長崎県の壱岐(いき)まで見えます。

なお鏡山ができたとき、上を切り取って海に置いたのが高島、さらにその上を切り取ったのが鳥島という言い伝えがありますが、巨人が鏡山に(つまず)いて転んだため怒り、頂上部を(なぐ)り飛ばしたことで高島などが出来たという説も有ります。

神集島(かしわじま)

神集島(かしわじま)は、佐賀県唐津市の北西部沖合い約1kmに位置する周囲約7kmの島です。島名は神功皇后(じんぐうこうごう)新羅(しらぎ)出兵の際に、神々をこの島に集めて戦勝祈願したことに由来(ゆらい)するといわれています。古代より、朝鮮半島や中国へ向かう船の渡海拠点(とかいきょてん)となったり、日本に来る際の着岸地として機能するなど、国際色豊かな重要拠点として、遣新羅使(けんしらぎし)を含め8世紀の奈良時代より、さまざまな文献にも島名が記録されています。

鳥島(とりしま)

鳥島は佐賀県唐津市の唐津湾に浮かぶ無人島です。唐津港の入口に位置しており同港にとっては自然の防波堤(ぼうはてい)の役割を果しています。

唐津市の市街地から最も近い島である。このため夏には唐津市の西の浜から遠泳大会やいかだレース大会が行なわれることがあります。

加部島(かべしま)

加部島は、本土(唐津市呼子町)とは全長727mの呼子大橋で繋がっています。古くは「壁島(かべしま)」、「神戸島(かべしま)」、「姫島(ひめしま)」、「姫神島(ひめかみしま)」等と言われていたようですが、壁のような断崖に囲まれた島から壁島と呼ばれたのが最初で、元和(1615〜1624年)検地帳に「加部島」と表記があることから、江戸時代には現在と同じ「加部島」の字が使われていたと思われます。

なお加部島は防風垣が守る畑地景観で「にほんの里100選」に選ばれている。

佐用姫(さよひめ)神社

佐用姫(さよひめ)神社は加部島(唐津市呼子)の田島神社の境内(けいだい)にあり、松浦佐用姫(まつらさよひめ)が夫との別れを悲しんで石となったと伝わる望夫石(ぼうふせき)(まつ)られています。田島神社は天平(てんぴょう)3年(731)の創建とされ『延喜式(えんぎしき)』にも社名が記される田島神社は肥前国(ひぜんのくに)佐賀県・長崎県の中でも最古の神社です。

祭神は田心姫尊(たごりひめ)市杵島姫尊(いちきしまひめ)湍津姫尊(たぎつひめ)宗像三女神(むなかたさんじょしん)古来(こらい)より海上交通の神として(うやま)われ、時の権力者たちから厚い信仰を受けていた。

ひれふり展望台〜虹の階段〜古代の森会館

ひれふり展望台で展望を楽しんだ後は虹の階段で下山。計画当初は逆回りで虹の階段から登ろうと思っていたが、『分県登山ガイド』では虹の階段を下る今回のコースがのっていた。『分県登山ガイド』の地図には虹の階段の所に「虹の松原と唐津湾の展望」とかかれており、登りだと振り返らないと景色が見えないけど、下りに使えば前方に景色が見ることが出来ると思って下りに使うことにした。階段の途中には何ヶ所かベンチがあった。

虹の階段を歩いていると花崗岩が風化した砂があった。脊振山近辺もそうだったけど、このあたりも花崗岩の山なのか。

虹の階段登り口の登り口には以下のような説明が書かれていた。

「虹の階段」ご利用の皆様へ

「鏡山に日本一美しい階段を造ろう」 という地元砂子の砂子の十年に及ぶ運動に 旧浜玉町と佐賀県が応えて平成十七年 三月に完成しました。

名称「虹の階段」は多数の公募の 中から古川県知事が命名されました。 山頂(二四三m)まで一二七八段で所要 時間は二〇〜三〇分程です。途中公道を 三ヶ所横切り、山頂部は険しくなり ますが登るにつれ眼下に広がる日本一 美しい景観を楽しみながら登って 頂ければ幸いです。

 平成一七年

唐津市 虹の郷

虹の階段の登り口の駐車スペースを挟んだ反対側にはお地蔵様が立っていた。お地蔵さまの説明には以下のよう書かれていた。

虹のお地蔵さま

虹のお地蔵さまは、この地を 訪れる人、虹の階段を登る人々に 健康と幸せを導く地蔵尊です。 学業向上、縁結び、家庭円満 商売繁盛など、人生に 虹のかけ橋を渡して下さいます。

皆様からの御浄財は鏡山の環境整備に使わせていただきます。

虹の階段登り口からは国道202号の歩道を歩き、唐津市赤水の交差点で左折し県道40号へ。県道40号に入るとすぐに右側に鏡山へ向かう道があり、神額に「鏡山」と書かれた大きな鳥居があった。そこからほんの少し先に「鏡山登山口」と書かれた昭和バスのバス停。

少し歩くと右側に鏡神社。時間があれば寄りたいところだが今回はパス。鏡神社の隣が古代の森会館。虹の階段登り口から古代の森会館まではもう少し時間がかかるかと思っていたが、わりとあっけなく到着した。

コースタイム

トラックログ

11:51に古代の森会館発。

唐津に行くなら虹の松原にも寄ってみようかと計画段階では思っていたが、虹の松原で画像検索したら、鏡山から全景を撮った写真の方が近景を撮った写真より多かった。近くで見たらただの松林だものなと思い、今回はパス。

家から鏡山への経路を調べていたときに地図でマリンセンターおさかな村というのを見つけた。予定していたより降りてくる時間が遅れたのでここもパスしようかと思ったがすぐ近くなので寄ることにした。

11:57にマリンセンターおさかな村着。走行距離113.7km、燃費25.6km/L、平均車速42km/h、走行時間2:40、EV走行距離46.4km(41%)、航続可能距離694km、外気温21度。高度0m。

予想していた以上に海産物の値段が安かったので少し多めの買い物をした。

12:22にマリンセンターおさかな村発。

地図で見つけた唐津うまかもん市場にも寄ってみることにした。

12:37に唐津うまかもん市場着。走行距離119.4km、燃費25.6km/L、平均車速40km/h、走行時間2:58、EV走行距離50.5km(42%)、航続可能距離692km、外気温22度。高度4m。

海産物もあったが、マリンセンターおさかな村で海産物は買ったので農産物を買った。JAの農産物直売所だけあって農産物が充実していた。

12:51に唐津うまいもん市場発。

鏡山からは松浦川の河口が見えたが県道40号は松浦川沿いの道。田園地帯に小山がポコポコとある景色がフロングラス越しに見えるので車で走っていて楽しかった。やがて前方に上にアンテナが建っている山が見えてきたがあれは八幡岳だろう。

松浦川に厳木川は合流しているが合流点のすぐ先で厳木川沿いの国道203号へ。途中で右折し、相知長部田ICより厳木バイパスへ。ここは国道203号のバイパスで元々の203号は県道305号になったそうだ。

岩屋IC手前あたりから右前方に大きな寺が見えてきた。調べてみたら妙法寺というお寺。

牧瀬ICで降りて、道の駅 厳木へ。

13:13に道の駅 厳木着。走行距離135.9km、燃費25.8km/L、平均車速41km/h、走行時間3:21、EV走行距離57.7km(42%)、航続可能距離685km、外気温21度。高度70m。

この道の駅は牧瀬ICを降りてすぐの場所にある。国道203号の牧瀬ICから多久原ICまでの厳木多久有料道路をパスして旧道を使いたい車が降りてきて、SA的に使う場所になっているようだ。

農産物や和菓子類とめざしを購入。和菓子のひとつは餡がかるかんのような皮に包まれていて思っていた以上によい味だった。めざしも結構美味かった。レシートを見てみたら、佐賀方面に来たときに良く買っているいかさし柚子こしょうと同じ呼子の木屋の商品のようだ。木屋の商品なら他の道の駅でも売っていると思うのでこれからは佐賀へ来たときには買って帰ろう。

この時期だと唐津からの帰りには牡蛎を買えるだろうと思っていたのにここまで牡蛎は見かけなかった。

13:32に道の駅 厳木発。

道の駅から少し走ると左側にヨコオの厳木工場が見えてきた。吉野ヶ里で良くビールのつまみのための鶏肉商品を買っているみつせ鶏本舗はヨコオの店だ。

多久原ICより国道203号の東多久バイパスへ。バイパスは5kmちょっとだけだが長崎自動車道と平行した道で走りやすい。

唐津では昭和バスのバス停は見かけたがバスは見なかった。小城に入ってから昭和バスをやっと見かけた。小城は交通が集中するようで少し道が混んでいた。

13:58に桜月堂着。走行距離150.4km、燃費26.7km/L、平均車速40km/h、走行時間3:48、EV走行距離68.1km(45%)、航続可能距離675km、外気温22度。高度18m。

家で羊羹の大量購入指令が出たので大量に購入。自分で運べない量でも無かったのだが、店の人が車まで運んでくれた。

14:10に桜月堂発。

14:30に道の駅 大和着。走行距離160.3km、燃費27.2km/L、平均車速39km/h、走行時間4:10、EV走行距離76.6km(47%)、航続可能距離670km、外気温23度。高度31m。

レトルトの鯉濃や西川こんにゃくの刺身こんにゃく等を購入。

14:51に道の駅 大和発。

時期的に牡蛎が買えるだろうと思っていたのだが、ここまで売っていなかった。ここまでで牡蛎が買えたらみやき町方面経由で帰ろうと思っていたが、牡蛎が買えそうな白石町に寄り、干潟よか公園のシチメンソウの群生地を見てから帰ることにした。

小城市近辺では祐徳バス、佐賀市営バスを見かけた。小城はこのあたりの交通の要衝のようだ。

15:33に与っちゃん直売所着。走行距離188.3km、燃費27.9km/L、平均車速39km/h、走行時間4:52、EV走行距離93.3km(49%)、航続可能距離652km、外気温22度。高度0m。

れんこんを購入。ここは牡蛎の時期には牡蛎を売っているのだがなかった。店のおじさんに聞いてみたら牡蛎は11月に入ってからだということだ。

15:39に与っちゃん直売所発。

15:44に道の駅 しろいし着。走行距離15:44km、燃費191.4km/L、平均車速27.9km/h、走行時間4:57、EV走行距離94.5km(49%)、航続可能距離649km、外気温22度。高度4m。

長いレンコンを3本と家で頼まれていたのだが、与っちゃん直売所では1本しかなかったのでこちらで2本購入。以前にここで牡蛎を買ったことがあったが、ここにもまだ牡蛎は無かった。

15:52に道の駅 しろいし発。

道の駅 しろいし近辺では有明海沿岸道路の工事車両らしきトラックがゆっくりと走っていた。このあと、有明海沿岸道路の未開通区間でトラックが走行しているのが見えたので未開通区間を工事車両を通す道路として利用しながら工事を進めているようだ。

16:21に干潟よか公園着。走行距離209.0km、燃費28.4km/L、平均車速38km/h、走行時間5:27、EV走行距離106.0km(51%)、航続可能距離630km、外気温21度。高度0m。

シチメンソウは昨年と一昨年は立ち枯れでダメだったらしいが今年は順調で紅葉が始まっているとのことだった。行ってみたら実際に紅葉していた。普通に自生しているのかと思ったら、大部分は仕切った干潟の中で育成されていて、自然の干潟に生えているのはわずかな数だった。結構、環境に影響されるから仕切った中で無いとうまく育たないのだろう。シチメンソウ目当てに来たが、有明海越しの雲仙や多良岳山系の山の景色の良い場所だった。

16:44に干潟よか公園発。

時間も遅くなったので大川東ICより有明海沿岸道路に乗った。この後に痛恨のミス。三橋ICで降りなければならないのに徳益ICがハーフICで降りれないと知らずに徳益ICで降りれば良いと思い行ってしまい、大和北ICで降りてから乗り直し。このあたりはナビは案内しなかった。下に平行して県道が走っているから仕方ないか。

国道443号の跨線橋の欄干にある清水寺はただのオブジェだと思っていたが、跨線橋を渡ったところでふと見たら灯りが付いていた。そんな仕掛けがあるとは思わなかった。渡る手前の所では気付かなかったが、多分渡ったあたりで点灯する時間になったのだろう。

17:36に道の駅 みやま着。走行距離242.8km、燃費29.2km/L、平均車速38km/h、走行時間6:23、EV走行距離126.9km(52%)、航続可能距離597km、外気温20度。高度9m。

いつものごとく海産物や海産物加工品を購入。ここでは海茸の粕漬けを毎度買うのだが、今回は唐津うまかもん市場とここで買った。ここの物は他よりかなり安いと思っていたが、唐津うまかもん市場のおよそ半額だった(唐津うまかもん市場が高いというわけでなく一般的な価格でここのがかなり安い)。

17:44に道の駅 みやま発。

18:37に自宅着。走行距離273.3km、燃費29.2km/L、平均車速38km/h、走行時間7:16、EV走行距離146.4km(54%)、航続可能距離573km、外気温16度。車の総走行距離28,477km。

荷物を下ろした後に車のリアのバンパーを見たらヤモリが張り付いていた。ヤモリは家の回りで普通に見かけるが、車は砂利の上に停めており、荷物を下ろす短時間の間に砂利の上を歩いて車に登ってきたとは思えない。可能性としては古代の森会館に停めている間に張り付いたか家を出発した時から車のどこかに張り付いていたかだ。ヤモリは夜行性なので後者の方が可能性としては高そう。以前にも阿蘇方面に行ったときにも車にヤモリが張り付いているのを見つけたので捕まえて、連れて帰ってきたことがあった。今日一日ずっとヤモリと一緒にドライブしていたとは思いもしなかった。

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