角埋山

三島公園駐車場〜焼不動〜角埋山〜末廣神社〜三島公園駐車場 2019/11/6

先々週に風邪をひき、本当に調子が悪いのは最初の数日だけだったが、先週半ばまでは少しだけ調子が悪い状態がずっと続いていた。復調したらどこかに登りに行こうとは思っていたが、寒くなり出すこの時期は何となく山に行くのが億劫。行けば楽しいのは分かってはいるのだが。昨年も一昨年もそんな今一つ乗り気では無い状態で根子岳に登ったが、登りに行ったらやはり楽しかった。今回は阿蘇方面で根子岳か、玖珠方面のサクッと登れるどこかに行って帰りに天ヶ瀬で温泉かと先週末あたりから考えていた。11/5の熊日の朝刊に載っていた根子岳の紅葉の記事を見て一度は目的地を根子岳に決めた。が、夕方のニュースで阿蘇の降灰予想だと南東方向へ降灰があるようなので根子岳は少しやばそう。10月に登った杵島岳・往生岳で火山灰でカメラの調子が悪くなったのに懲りたので根子岳はパスすることにした。と言うわけで今回は玖珠の角埋山&天ヶ瀬温泉山行。

11/6(水)

荷物を車に積むために外に出ると、天頂部はきれいに星が見えるが、水平方向は少しガスが出ているようで見える星の数が少なかった。

5:31に自宅発。外気温6度。航続可能距離776km。

走り出してから3分ほどでトリップメーターのリセットを忘れていたのに気付きリセット。

玉杵名大橋を渡るときに菊池川を見てみると川霧が立ち上っていた。山鹿のあたりは菊池川沿いは濃霧だろうかと思ったが、ハイビームだと運転しにくくなるものの濃霧と言うほどでもなかった。

山鹿の裏道で鞍岳が見え出すあたりで、鞍岳の右側に阿蘇山の噴煙が見えた。よい眺めだったので、七城からの裏道の途中で車を停められる場所を見つけて写真を撮った。

上津江のあたりまで来ると農地に霜が降りていた。気温を見たら0度だった。

6:59に道の駅 道の駅 せせらぎ郷かみつえ着。走行距離59.8km、燃費22.2km/L、平均車速44km/h、走行時間1:21、EV走行距離28.3km(47%)、航続可能距離697km、外気温0度。高度350m。7:02発。

川底温泉のあたりでまで来たときに何となく運転するのが面倒になってきて、引き返して涌蓋山に行こうかとも思った。だけど、登るのに楽なのは角埋山だよなぁなどと考えつつそのまま運転し続けた。引路のあたりでメサの山が見えてくると気分が盛り上がってきた。引路のあたりで見えるメサの山は前からどこかと思っていたが、調べてみたら青野山(あおやさん)らしい。

7:54に道の駅 童話の里くす着。走行距離101.0km、燃費23.9km/L、平均車速45km/h、走行時間2:14、EV走行距離48.3km(48%)、航続可能距離67.2km、外気温2度。高度335m。8:01発

8:08に三島公園駐車場着。走行距離103.1km、燃費23.7km/L、平均車速44km/h、走行時間2:22、EV走行距離49.3km(48%)、航続可能距離671km、外気温2度。高度356m。

三島公園の駐車場はそのうち大岩扇山へ登ろうと思っていて、車を停められる場所を探していて見つけた。車は普通は影の木集落あたりに停めるらしいが、それより手前に駐車可能な場所がないかとGoogleマップの衛星写真で探していて見つけた駐車場だ。その時は角埋山もそのうち登ろうとは思っていたが、「のぼろ」の最新号にコースが紹介された。「のぼろ」に載ると人が多くなりそうなので、今回の角埋山にとっと登っておこうと思って角埋山を目的地とした。

三島公園駐車場〜焼不動

角埋山の名を知ったのは伐株山に登ったときにあった玖珠盆地についての案内板でそこには「玖珠盆地をつつむ山々には、万年山や大岩扇(だいがんせん)山のように頭の平らな山(メサ地形)角埋(つのむれ)山やチョコ山のように杯を逆さにした姿の山(ビュート地形)、、、どの山も普通の山々とは姿が異なっていて、まるでおとぎの国のようです。この地域ほど沢山のメサやビュートが集まったところは、日本には他にありません。」と書かれていた。その帰りに寄った道の駅 童話の里くすに寄ったときに「角牟礼城跡」のパンフレットがあるのを見つけてもらってきた。このパンフレットのおかげで角埋山が登れる山だということが分かった。

登る前に三島公園の駐車場のあたりを少し歩いてみた。色々と案内板があった。

桃太郎のように

育つことを願って 

「玖珠町」は、日本のアンデルセンと呼ばれた口演童話家 『久留島武彦先生 (明治七年〜昭和三十五年)』 の生誕の地です。

「弱気を助け強気をくじく、気は優しくて力持ちの 桃太郎のような子どもに育つこと」を願っていた先生は、 「こどもの膝の前の友だち」になることをめざして、 日本全国・世界各国を口演行脚し、各地に児童文化活動を 芽生えさせました。

『童話の里づくり』を進める玖珠町は、子どもの豊かな こころをはぐくむことに生涯をかけた先生の意思を継ぎ 「子どもたちの『心のふるさと」となるような町づくり」 を目指しております。

玖珠町 

久留島武彦先生の遺訓

『継続は力なり』

三島公園

昭和四九年に玖珠町とし公園として認 可され、野外ステージ・遊具・休憩施設 などを整備し、現在にいたっている。

公園には清水御門・栖鳳楼・鞘堂づ くりの御神殿・お城仕立ての末廣神社・ 久留島庭園・御長坂等の名所・旧跡が数 多く点在している。

又、児童碑・クロちゃんとしてこども たちに親しまれている蒸気機関車や、一 角には、図書館や郷土玩具を展示してい る清田コレクション等、こどもたちの憩 いの広場としてのわらべの館もあり、 こどもたちから、お年寄りまで楽しめる。

角埋城跡とお城仕立の末廣神社

標高五七六メートルの角埋山は天然の 要害で中世の山城として、天正年間の豊 薩戦では、豊後不落城の一つであった。

山頂には角牟礼城跡があり、戦国時代 の武将[織田信長]が安土城を築城する 際用いた石組の工法、いわゆる穴太積に よる石垣や縄張りが、今でも築城当時の まま残され、照葉樹の多い自然林があり、 保健保安林になっている。

源為朝を祀ったという巨大な木造の不 動尊立像が安置されている角埋神社もあ り、展望が素晴らしい。

瀬戸内海の水軍であった久留島氏は、 角埋山の麓に館を構えたが、幕府の掟で 城を持たれぬ小大名であった。

森藩では、角埋山は”大切之御山”と していたが、第八代藩主 通嘉のときに、 氏神である三島宮(廣末神社)の改築を 思い立ち、境内をお城仕立てにつくりあ げた。

通嘉公の豪快さと雅趣を兼ね備えた気 質のよく表れた普請は、一藩の主とし てお城をもちたいという願いが込められて いたに違いない。

角牟礼城跡遊歩道案内図の前には車が停められていた。空いているところは他にもあるのだからわざわざそこに停めることないのに。おかげで案内図は斜めからしか見ることができない。斜めなので字もよく読めないが一応写真を撮っておいて、GIMPで無理矢理まっすぐにしてみた。

駐車場からは大岩扇山や、これから登る角埋山が間近に見えた。

駐車場を出てすぐの道の脇には「角牟礼城跡遊歩道」、「遊歩道は、車では登られません 三島公園駐車場をご利用ください」と書かれた案内板が立っていた。

三島公園や近くの民家ではサクラ、ケヤキ、イチョウ、カキ等の木の葉が紅葉していた。

民家の間のアスファルト舗装の道を歩いていった。途中に道標があって、字が薄くなっていて読みにくいが、片方は「八重垣を経て清水瀑園へ」、もう一方は「上谷を経て三島公園へ」と書かれていた。道標の柱には「柱に環境庁 大分県」とあった。調べてみると長距離自然歩道の「深耶馬・南耶馬コース(津市耶馬溪町大字深耶馬〜玖珠町大字森)」なのでこの道標が設置されているらしい。道標があるのだからそれに従えば良いと安易に考えて、清水瀑園方向に進んだが、武家屋敷まで行ったところで間違いに気づいた。この武家屋敷は後年にも住居として使われていたから残ったようで見た目は古い民家のような感じだった。

旧千葉家邸

上谷にある武家屋敷跡。

千葉家は森藩の家老も務めていました。江戸時代の主屋 と薬医門で、蔵は明治に建てれたものです。主屋は平入の一 部二階建て、屋根は寄旨造茅葺(現在はトタンで覆う)で、 鍵屋に造っています。軒裏はせかい造とし、外壁は真壁造白漆 喰仕上げ、腰壁は堅板張りとなっています。北側の角屋下屋庇 下に式台玄関を備え、建物奥側の座敷北側には庭園を造って います。主屋・門ともに比較的良好に保存されて降り、森城下町 を代表する上流武家住宅の遺構です。

なお、老朽化により危険であるため立ち入りはご遠慮ください。

民家の間を歩いていくのだが、結構坂が急。やがてコンクリートの簡易舗装の道となり、砂利道になった。途中に炭焼き小屋があったり、シイタケのホダ木が置いてあったりでいかにも里山と行った感じ。

そのうち石垣が見えてきた。植林がされている場所だったので、城の遺構ではないのかも。

石垣のところからすぐに竹林。竹を利用しているという感じはなく、竹が侵食してきているようだ。

やがて階段の登りとなった。登り口のところには高札風の簡単な地図が設置されていた。このような地図は今回のコースのところどころに設置されていた。

階段が延々と続くことを怖れたが、途中からは普通の山道となった。階段の途中に倒木が1本あり、乗り越えることも、くぐることも出来ずに脇によけて歩くしかなかった。そこが今回の一番の難所だった。

針の耳は狭くてザックを下ろさなくては通れない。善人だけが通れるということだが、「ザックを下ろすくらいなら悪人ということで結構です」ということで針の耳を通過することはやめた。

針の耳

数個の石が重なり狭い石 のトンネルとなっている。 昔から善人だけが通るこ とができるといわれてい る。

月見岩

藩主が月見をしたといわ れる大きな岩。岩扇山から の月の出は本当に綺麗だ っただろう。

玖珠町 商工観光課

シカの鳴き声が階段を登っているあたりから聞えていたが、針の耳のあたりでわりと近くから聞えるようになった。針の耳の上に出たあたりですぐ近くで鳴き声が聞え、林の中をガサガサと遠ざかっていく足音が聞えてきた。

針の耳から5分ほどで石の祠があった。扉は開いていたが中を見ても何も安置されていなかった。さらに登ったところにある焼不動のところにあった案内板にかかれた金比羅祠(角牟礼城跡のパンフレットには「金刀比羅」と書かれている)がこの祠らしい。

焼不動は建物の中が暗くて中に安置されているものが見えなかった。「角牟礼城跡」のパンフレットには写真がのっているので、中身が知りたければこのパンフレットを道の駅 童話の里くすあたりでもらっておいた方が良いだろう。

(伝)焼不動

源頼朝の叔父で弓の名 人の源為朝が角埋山に立 てこもった時期があり、死 後にその遺徳を偲んで不動 明王をつくったという。そ の不動明王を納めたお堂 が戦国末期、薩摩の島津軍 との戦いで焼け、顔だけが 残ったと伝えられている。

玖珠町 商工観光課

力強い彫りの尊像は源為朝の霊を 不動明王の尊容に象りお祭りしたもの で鎌倉時代(約八〇〇年前)の作ではな いかといわれています。昔は山上の社に 祭られてありましたが、火災にあってこ の岸壁下にお移りされたといい、俗に 「焼不動様」と称されており人々に身 体をお護り下さる神様として尊崇さ れています。

焼不動のそばに古いサビサビの案内板。手書きの案内板でなかなか味わいがある。

焼不動〜角埋山

焼不動のところに手水らしいものがあったが、かつてはその水を引いていたらしいパイプの残骸が道沿いにあった。道はすぐに岩場に行き着いた。岩から水がしたたっていた。この水をパイプで引いていたのだろう。岩場の下には不動明王の石像があった。

焼不動のところに「本丸跡へ 300m」と書かれた道標があったが、少し歩くとあっけなく本丸跡に到着。あたりは開けていてベンチが置かれていた。広場の一角には土塁跡、隅櫓跡の案内板があった。

本丸跡

角埋山頂上部に位置し、標高は577mで周囲 には土塁を巡らせている。北側には石垣が築か れ、石垣上面の東隅に櫓建物が検出されている。 南側からは階段状の虎口(こぐち)が検出されている。

木々が周囲の景色を遮っているが、北側の方は少し眺望があり、英彦山方面の山が見えた。他には木々の間から鏡山の後ろの方に御前岳、釈迦岳、渡神岳が見えた。鏡山の右の方に電波塔のある開けた山頂の山があった。登れる山かと思って帰ってから調べてみた。場所は33.301251, 131.117020で、周囲は牧野で道はあるのだが、途中にゲートがあり、登山対象として登られているようではなかった。

せっかくベンチがあるので山頂で食事。

角埋山〜展望台

山頂からほんの少し下ると展望台に到着。展望図らしきものがあったけど、微妙に実際の見え方と違う。崩平山と宝山の位置関係が違うことにまず気付いた。崩平山、黒岳、青野山(あおやさん)を宝山の右側にごっそり移動したら実際の景色と合う。帰ってから調べてみたが、大船山と平治岳の見える位置はたぶん逆。一目山は涌蓋山に、沓掛山は黒岩山に隠れて見えないはず。あと標高が違っている山がある。指山は1449mでなく1419mになっている。こうもり山は888mでなく841mになっている。もっともこうもり山はどこを山頂とするかで違ってくるだろうから一概に間違っているとは言えないだろう。山の位置が少しおかしいのは違う位置から見た図を描いたとか、地図を主体に描き起こしたが、基準とする場所を間違えたとかなのだろう。

展望台からはとても眺めが良い。国道387号を道の駅 童話の里くすから国道210号へ向かっているときに見える景色も良いが、更に高いところから見る景色なのでさらに良い。大岩扇山、小岩大扇山、宝山、九重山、涌蓋山、万年山、伐株山が良く見えた。木々の間からは鏡山の隣に御前岳、釈迦岳、渡神岳が見えた。トンビが一羽飛んでいてのどかな雰囲気を醸して出していた。

展望台〜三島公園駐車場

展望台からほんの少し下ると角埋神社。建物は本丸から展望台へほんの少し歩いたあたりから見えてはいた。

角埋神社の案内

角埋山は、昔から霊山として人々の信仰対象の山であった。 角埋神社は源為朝を祭る。鎮西八郎と称された為朝は、久寿二年 (一一五五)には豊後国に居り、この角埋にも拠っていたと伝えられて いる。保元の乱に破れた為朝は治承元年に(一一七七)に、(別説に嘉 応二年)伊豆の大島で没っしたともいうがこの地で逝去との説もあ る。(松信の天祖神社縁起)のちに、山麓の住民は為朝公の遺徳を慕 って、神像を彫み社殿を建て公の礼を鎮祭した。

鎌倉時代の作といわれるその神像は、昔火災にあって焼損し、東 の岩下に納められている。(焼不動さんという)

安政八年 (一七七九) に、第六代森藩主 久留島信濃守通祐は、 新に神像を彫刻させ (右足の六指は為朝故事という)社殿を再建し 祭典、修理等は藩が行い、森村産土(うぶすな)神社(鬼丸にあった妙見宮で 明治五年に末廣神社に合祀)大宮司が兼勤奉仕していた。

江戸時代には藩主の館は今の三島公園にあり、戦国時代に島津軍 の猛攻に耐えて、その名を揚げた角牟礼城は廃城になっていた。 藩では角埋山に巡監をつけて人々の立ち入りを禁じていたが、三月 三日(旧暦)は祭日として参拝を許していたということである。 桃の節句の不動さんのお祭りは、今では四月の第一日曜日に 毎年 行われている。

尚、現在の社殿は昭和三十七年に 老朽化のため再建されたもの であり、平成三年の十九号台風で、境内の樹齢数百年の大杉が倒れ 、社殿の一部が破損、物置が全壊した。

平成四年四月吉日   

角埋神社

「角埋神社の案内」を読んでいるとどこからともなくカサコソという音が聞えてきた。社の軒先を見るとバスケットボール位の大きさのスズメバチの巣があり、蜂がうごめいていた。

角埋神社のあたりから廣末神社までは石仏がところどころにあった。角埋神社あたりの石仏の台座には寄進者の名前と住所が彫られていた。住所は「森町」とあったので明治26年以降に造られた石仏ということになる。角埋神社周辺より下の石仏はもっと古そうな感じだった。

角埋神社からほんの少し歩くと西門跡。西門跡の案内板のすぐ近くに二の丸西曲輪、礎石建物跡の案内板があり、このあたりを少しウロウロと歩いた。北西方面の展望があるが、近くの低山しか見えなかった。

西門跡

大手門跡と同規模の櫓門と考えられる礎石と 「かんぬき金具」が見つかる。周囲から瓦片が 見つかる。門から外に向かう通路の一部には石垣 の石材と思われる石が散乱している。

二の丸西曲輪

西門跡の南側にある曲輪。南端に礎石建物跡が 見つかり、西側縁辺部に土塁が確認できる。曲輪 周囲に石垣があるが崩落が進んでいる。南側虎 口石垣の石より小さな石材が使われている。

礎石建物跡

二の丸西曲輪の眺めの良い南端部に建てられ ている。当時は玖珠盆地が望めていたと思われる。 瓦が見つかっていないことから、板葺等の屋根材 が考えられる。

西門跡からほんの少し歩くと大手門跡。「岩清水・馬洗い池」の方向を示す道標があったのでそちらの方へ行ってみた。道標の「岩清水」の下には「(飲まれます)」と書かれていたが、「絶対に嫌です」と断言したくなるようなただの水たまりと言った感じの場所だった。手水鉢があって、水が溜まっていた。パイプで水が引かれているようだが、パイプからは水は出ていなかった。以前はそれなりの量の湧水が出ていたのだろうが、この手水は雨水がたまっているだけと言った感じだった。

大手門跡

西門跡と同規模の櫓門と考えられる礎石が見つ かる。周囲からは瓦片が見つかっている。東側奥 には湧水がある。

大手門跡からほんの少し歩くと搦手門跡。ここは案内板はなくて、高札風の地図に現在地として示されているだけだった。

搦手門跡からほんの少し歩くと二の丸。途中に「難攻不落の角牟礼城略年表」という案内板があった。

難攻不落の角牟礼城略年表

(つのむれ会)

所在地 大分県玖珠郡玖珠町大字森(角埋山・標高五七六m)

一一二二保安 三

十一月十九日の「清原氏所領配分状」 (大友文書)に「角牟礼鐘突堂」 とあり、これ以前に山岳宗教の堂宇 がここにあったと思われる。

一一五五 久寿 二

このころ、源 為朝が築城したと伝え られる。

一二七六

一二八七
弘安年間

このころ森三郎朝通が、ここに居城 したという。

一五三四 天文 三

大友義鑑は、古後中務少輔以下八名 の玖珠郡衆あてに、新掘築造の感状 を出す。 (菊池氏、大内氏に対する 備えとして)

一五八六 天正十四

一二月、大友氏攻略の島津軍約六千 人が玖珠郡に攻め入る。

一五八七 天正十五

一月〜三月、角牟礼城攻撃。籠城の 森五郎左衛門をはじめ古後、太田氏 等約一千人、島津軍数度の猛攻に屈 せず、これを撃退する。

一五九三 文禄 二

豊臣秀吉は大友吉統を罰し、除国。 豊後国は秀吉の直轄地となる。森氏 等も城を棄てる。

一五九四 文禄 三

毛利高政は、秀吉の命を受けて日田 ・玖珠郡に入部。以後六年の間に本 格的な築城を目指し、穴太積みの石 垣や櫓門も造られたのではないかと いわれている。

一六〇〇 慶長 五

九月、関ケ原の戦いで西軍敗北。 城は黒田如水により開場。

一六〇一 慶長 六

徳川家康、元伊予の水軍大将来島康 親を森に封ずる。康親は館を角埋山 の麓(童話碑のところ)に構える。 角牟礼城は廃城となる。(毛利高政 は佐伯城へ移る。)

一六一五 元和 元

幕府、一国一城令を公布。二代藩主 久留嶋通春は、城の建物・石垣の一 部を破却。

藩政時代

その後森藩では、有事に備えて山一 帯を管理し、通常は一般の入場を禁 じていた。

一九九三 平成 五

玖珠町教育委員会により、城跡の発 掘調査が始まる。 (櫓門跡などの礎石・瓦片・磁器 などが出土。)

二の丸

南側と西側に外枡形の虎口があり、同規模の櫓 門を思われる礎石が見つかった。

特に南側虎口は全長100mの石垣があり、穴 太積みと呼ばれる初期野面罪がよく残る。

二の丸からほんの少し歩くと三の丸。すぐ近くには竪堀があった。基本的に本丸跡から三の丸までは、ほんの少し歩くと次の遺構の案内板にたどり着いた。

三の丸までは車で車道があり、車で来ることができるとのいうこともあって、角牟礼城跡の案内板が設置されていた。道標によると三の丸から本丸跡まで約8分とのこと。

角牟礼城跡

角牟礼城跡は標高五七七メートルで、古くから石垣のある山城と して知られている。天然の要害と呼ぶにふさわしく、三方を切り 立った険しい岩壁で囲まれている。

角牟礼城跡の名が史料にはじめて登場するのは、文明七(一四七五) の志賀親家文書である。その後、天文二年(一五三二)や翌三年 には「角牟礼新掘之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、 角牟礼城跡は、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城と して玖珠郡衆により守られていた城である。

天正十四年、十五年(一五八五、八六)の島津氏と大友氏の豊薩戦 では、唯一落城しなかった要害堅固の城として有名でもある。

文禄二年には(一五九三)豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおか した大友義統を除国し、翌年には日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利 高政を入部させた。慶長元年(一五九六)からは毛利高政が日田 ・玖珠郡二万石を支配したことが、秀吉の「朱印状」や「黒田家 譜」からも知られる。今回発掘調査で発見された門跡や現存する 石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。従って、こ の城跡は文禄三年頃、豊後の要の城から、領国支配のための近世 城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。

そして慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦い後、毛利高政は佐 伯城主に転封され、一時黒田孝高の預り地となるが、代わって伊 予より来島康親が入部する。しかし、来島は一万四千石の小大名 であり、城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣屋を築き、 山城は「正保の絵図」(一六四四)に古城と書かれているように、 そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。

平成五年から町教委により発掘調査が行われ、本丸に階段状の 虎口(出入り口)、大手門、搦手門に同じ規模の門跡、また二の丸 には礎石建物が発見されている。二つの門には瓦が葺かれていた と考えられている。

玖珠町教育委員会

玖珠町文化財調査委員会

三の丸

林道により一部が壊されているが、三方を石垣 で囲まれた曲輪。石垣の角には櫓台の遺構が残 る。平成24年度の石垣解体修復工事で積直しの 跡と石垣内部からコンニャク印判の碗がみつかっ た。

西門あたりから砂利道だったが、三の丸からの下りは土の道。下りの最初の方はモミジが多かったが、まだ紅葉していなかった。

土の道を少し歩くとコンクリートの階段の道。道の脇にはところどころに石仏があった。このあたりでまたシカの鳴き声を聞いた。

途中からコンクリートの道に。途中に左に行く道があった。おそらく炭焼き窯あたりに出るのだろう。

下っていくと大岩扇山や往路で通ったあたりの民家が見えてくるようになって来た。

どこかからかお寺の鐘の音が聞えてきた。時計を見ると11時。

途中の道標のところに角柱が立っていて片面に「角埋遊歩道」と書かれ反対側に「昭和五十七年十一月三十日完成」と書かれていた。コンクリートの道は遊歩道として整備したのだろう。右と左に向かう道があった。左は往路で通った道のどこかに出るのだろうが、右はどこへ続いているだろうか?

ずっと下まで舗装されているのかと思ったら、途中から土の道になった。途中の道標には「角牟礼城跡」の文字と方向を示す矢印、「角牟礼城跡」の文字の下には「(角埋山登山口)」と書かれていた。

やがて道は石段、石畳になった。末廣神社の建物の手前に建物があったので寄ってみた。不動尊らしいが建物の中は見ることが出来なかった。

ほんの少し歩くと栖鳳楼で、そこからほんの少し歩くと末廣神社。

(せい)  (ほう)  (ろう)

森藩の記録には、「紅葉の御茶屋」と記 されており、天保二年(一八二一)に完成。

真言宗の高層『不退堂』によって栖鳳楼(せいほうろう) と名付けられた。

神社祭典のための参篭(さんろう)(御通夜)や月見・ 花見の宴などにも使用されていた。

二階からの眺望は、素晴らしく、お城 の天守閣の趣をなしている。

一階は御茶屋風になっており、その庭園 は九重連山や城下町の遠景を取り入れた もので、豪華な飛石が配置されている。

末廣神社 御案内

御祭神

天御中主神(あめのみなかぬしかみ)大山積神(おおやまつみの)二柱

境内社 五社殿 松尾社 不動尊

由  緒

慶長六年(1601)初代森藩主久留島康親公 は藩の守護神として三島宮を愛媛 県大三島より御勧請鎮祭した。その 後文化文政の頃、第八代久留島通嘉 公によって境内並びに御神殿、拝殿 その他の建物などが造営整備され現 在の姿になった。明治五年になって 当地方に以前より祀られていた妙見 宮を合祀して社名を末廣神社と 改称し現在に至っている。

御 神 殿

御神殿は総欅造のもので精巧かつ優 美であるが鞘堂がその上を被ってい る。鞘堂は規模が大きく建坪が三十 六坪ある。

庭  園

境内に巨大な岩を用いた庭園が数ヶ 所ある。

清水御門
  庭園

社殿北側の石段下庭園は表参道の入 口に造られたもので、その上部に清 水茶屋があった。

栖 鳳 楼
  庭園

拝殿正面下段の二階建の建物は栖鳳 楼と呼ばれ階下は茶室となっており ここから眺めると、はるか九重連山 の遠景をとり入れた庭となっている。

旧久留島邸
   庭園

南側斜面下の児童公園に接する部分 に蓬莱式池泉庭園がある。雄大豪華 な主峰で石組がなされている。

末廣神社では最初に手水鉢が目に入った。日本一大きな手水鉢とあり、確かに岩は大きいけど、日本一ということほどではないのではと思った。案内板の説明で岩をくりぬいてあることが分かったので覗いてみると結構深かったので日本一ということに納得した。

日本一大きな手水鉢(ちょうずばち)

巨大な岩石をくりぬいたこの 手水鉢は、角埋山の中腹から() き寄せたと言われますが、一体 何人でこの巨石を引っぱったの でしょうか。石工には、石の粉 一升を彫れば小銭一升を与える として奨励し、彫らせたとも言 われています。その前の二個の 二段の踏み石(水を汲むための 石)も巨大です。

鉢の容量は、七石

(約一二六〇リットル)

神社の2体の狛犬の後ろにはそれぞれ砲弾のようなものがおいてあった。台座の上に固定されているのだが、台座の石からすると新しいものでもなさそう。神社に砲弾? とか戦時中に金属供出されなかったの? とか疑問がわいた。帰ってから調べてみたが、これが何なのかは結局はわからなかった。

境内には大きなイチョウの木。もしやと思ったら、やはりギンナンが落ちていた。靴が臭くなるからギンナンは踏みたくないと思ったが、あまり多くは落ちていなかった。イチョウの木のそばに「鎮西八郎射ぬきの石」というのがあった。

鎮西(ちんぜい)八郎射ぬきの石

豊後国志巻之七角埋山 の項によると、久寿年間(一一五 四〜五六)(みなもと)為朝(ためとも)が城を角 埋山に築きこれに()る、とあり ます。為朝は十三歳の時、父に 追われ九州に勢力を張り、朝廷 の召喚(しょうかん)にも応じませんでした。

為朝は強弓(ごうきゅう)の名手として名高 く、向かいの岩扇山から射た矢 が、この石を貫いたと言われて います。

「鎮西八郎射ぬきの石」のそばには「鞘堂づくりの御神殿」の案内板。

鞘堂(さやどう)づくりの御神殿

総けやき、入母屋づくりの精巧な内殿を包 むように外殿が(おお)っているので、鞘堂(さやどう)といわれ ている。内殿は文政十二年(一八二八)の完成 とされ、七年間の歳月を費やしている。

[図]

鞘堂(さやどう)の北隅の柱に両側から梁材(はりざい)がとおしてある。  よく見ると、そのほぞ穴の位置が両方とも同じ  高さになっているが、それはありえない。  満つれば欠けるの意図で、完全を()(きら)い、わ  ざと矛盾をつくった棟梁(とうりょう)気質(かたぎ)が伝わってくるよ  うな気がする。

栖鳳楼の脇の方に降りていく道があったので降りてみたら栖鳳楼の庭園に出た。木に遮られて庭園からの眺めは今ひとつだが、栖鳳楼の二階からは庭園と九重山の借景が素晴らしそう。

栖鳳楼(せいほうろう)茶庭見取図

玄関に向かう七石を始めとす る七五三石組方からくる祝儀の 庭、途中に臼石の大小を置いて 順路を暗示するのも、意匠的に すばらしい。それに九重連山の 借景を取り入れた雄渾(ゆうこん)な自然風 景は、まさしく蓬莱山(ほうらいさん)石組で す。東方から太陽が昇り西方に 没する姿を日灯籠と月灯籠で 表現しているのです。

栖鳳楼を降りていくと、野外ステージが見えてきて、旧久留島氏庭園に出た。降りてくる途中に防空壕があった。

 国指定名勝 旧久留島氏庭園

(指定日 平成二十四年一月二十四日) 

旧久留島氏庭園(きゅうくるしましていえん)は、末廣山の斜面と裾部を利用した御殿に接する藩主御殿庭園(はんしゅごてんていえん)と末 廣山の南端に建てられた栖鳳楼の周囲につくられた栖鳳楼閣庭園(せいほうろうていえん)、末廣山西側の清水御 門前の掘の一部を庭園化した清水御門前庭(しみずごもんまえにわ)の三つから構成されています。三つの庭園 は、末廣山の高低差地形眺望を最大限に利用して配置され、園路によって有機的かつ 効果的につながれた回遊式の庭園と考えられます。

●藩主御殿庭園

御殿からの鑑賞のために造られた庭園。枯滝を中心にバランスよく巨石が使われ 迫力のある庭園に仕上げる。

●栖鳳楼庭園

枯山水の石組みとその背後にある景色(借景)が組み合わさった庭園。 庭園の背後に城下町目差の山並みの遠景 万年山九重連山御山並みの遠景が一望できる

●清水御門前庭

堀の端部を庭園化したもので、堀の直線と庭の曲線が融合する限られた空間に 効果的に石組みを配置する横からだけでなく上(御茶屋)からの鑑賞も考慮されている

日本庭園はあまり興味がないが、説明に書かれているとおり、高低差・地形・眺望を最大限に生かしている庭園で、なかなか良い庭園だと思った。

喜藤次(きとうじ)泣かせの石

三島神社大改修の際の人夫頭 長尾喜藤次は、村人を使って森 奥の八重垣から、これを引き寄 せたと言います。あまりの巨石 に運搬は遅々として進まず、さ すがの喜藤次も精根尽きて地団 駄踏んで鳴きだしたと言われて います。ここの庭景の中心をな す枯滝石組が正面に眺められる 場所でもあり、また三島神社の 礼拝石の役目を持つとも考えら れます。

庭園には石像があったが、おそらく第八代藩主久留島通嘉なのだろう。

山の中では誰にもあわなかったが、公園の遊具のあるあたりには親子連れが何組か居た。

最初はあまり期待していなかったが、歩いてみると意外と良い山だった。歩行距離が短いのでのんびりと散歩感覚で歩け、眺望のある場所からの眺めもわりと良かったので思っていた以上に楽しめた。そのため単純に往復だけだと1時間半もかからない山なのだろうが、3時間も歩いていた。今回は予定していたよりも降りてくる時間が遅くなったので、庭園を見る時間が取れなかったが、庭園をゆっくり見るためにまた来たいと思った。

コースタイム

トラックログ

11:42に三島公園駐車場発。

11:48に道の駅 童話の里くす着。走行距離104.9km、燃費23.6km/L、平均車速41km/h、走行時間2:35、EV走行距離50.8km(48%)、航続可能距離670km、外気温19度。高度324m。

毎度の万年元気豆腐のざる豆腐等を購入。

今回はもっと早い時間に降りて来れるだろうと思っていたので、角埋山から降りてきた後に車で伐株山にでも行こうかと思っていたが、ここの道の駅の観光案内のところに11/5, 6は伐株山は通行止とあった。帰ってから調べてみると10/21〜2/14は落石防止工事をやっていて、日曜日を除き、全面通行止めとのこと。期間中ずっと通行止というわけではなく、平日の通行止解除の際は解除中表示をしますとあった。前回、伐株山に登ったときに林道の脇の木が刈り払われているところがあったが、工事の準備のために切り払ったのかも。

12:08に道の駅 童話の里くす発。

玖珠ウィンドファーム の風車は全部止っているのかと思ったら、ものすごくゆっくりと動いていた。全部で11基あるそうだが、道から見えた7基中で停まっていたのは1基だけだった。

12:16に道の駅 慈恩の滝くす着。走行距離116.3km、燃費24.2km/L、平均車速40km/h、走行時間2:56、EV走行距離57.2km(49%)、航続可能距離665km、外気温18度。高度260m。

売店でカボスハイボールなどを購入。そのあとに慈恩の滝へ。

時間が遅いせいか滝に日が差していない。日が差さないと見た目が寒々しいので景色としてイマイチ。慈恩の滝には4月以来4回ほど来ているが、滝の脇に生えている竹が滝の方へ倒れ込んで来ていた。滝の写真を撮るとその竹が写真に写りこんで邪魔だったが、今回はそれが無くなっていた。

12:43に道の駅 慈恩の滝くす発。

12:51に桜滝駐車場着。走行距離121.8km、燃費24.7km/L、平均車速40km/h、走行時間3:04、EV走行距離60.0km(49%)、航続可能距離656km、外気温18度。高度186m。

まずは桜滝へ。滝に向かっているときに特急が目の前を通過。前回来たときは滝を見終わって帰るときにこの特急が通過するのを見ている。

慈恩の滝同様、こちらもあまり滝に日が差しておらず寒々しい景色となっていた。滝を見るならもう少し早い時間に来た方が良さそうだ。

滝を見た後に駅前温泉へ。先客がひとり。ほんのりと硫黄臭のする青白く濁った湯が心地よい。

13:35に桜滝駐車場発。

13:53に亀石峠着。走行距離134.3km、燃費22.4km/L、平均車速40km/h、走行時間3:23、EV走行距離62.6km(47%)、航続可能距離644km、外気温14度。高度795m。

今回も亀石峠で景色を見ながら軽く食事と思っていたが、角埋山の山頂であまりにも腹がへっていたのでバカ食いしており、食事は入らずコーヒーを飲んだのみ。

目の前の牧草地は耕してあった。阿蘇山の写真も撮ったのだけどピンボケ。杵島岳・往生岳に登りに行ったときに火山灰に晒されたせいか少しカメラの調子がおかしい。

14:03に亀石峠発。

ファームロードわいたから見えた涌蓋山の山肌が少し赤かった。何の木が紅葉しているのだろうか。

デュッセルでソーセージを買おうと思って寄ったのだが、休みだった。前に岡本豆腐店に水曜日に行ったら休みだったが、水曜日はやはり休みのところが多いようだ。

14:48に道の駅 せせらぎ郷かみつえ着。走行距離166.9km、燃費24.9km/L、平均車速40km/h、走行時間4:09、EV走行距離81.7km(49%)、航続可能距離606km、外気温17度。高度376m。

今回はシカ肉がなかったのでイノシシの肉とカステラ等を購入。

15:03に道の駅 せせらぎ郷かみつえ発。

15:18に兵戸公園着。走行距離177.8km、燃費24.3km/L、平均車速40km/h、走行時間4:25、EV走行距離85.9km(48%)、航続可能距離598km、外気温15度。高度585m。

兵戸公園は山の中にポツンとある公園で何でこんなところに公園があるのかと思い、以前調べたが、ネットで検索しても見つかるのは公園の中にあるモミジのことだけだった。そのモミジが紅葉の盛りにはまだ少し早い感じではあるが、そこそこ紅葉していた。

15:25に兵戸公園発。

15:52にコメリ 菊池店着。走行距離196.4km、燃費26.1km/L、平均車速40km/h、走行時間4:53、EV走行距離95.8km(49%)、航続可能距離578km、外気温23度。高度44m。

前回に寄ったときに購入したペイビングストーンというレンガ風のコンクリートが追加で少し必要になったので購入。

16:14にコメリ 菊池店発。

集中力が落ちてきたので家まではあと少しではあるが、グッデイ 玉名店へ寄ることにした。

17:05にグッデイ 玉名店着。走行距離225.8km、燃費27.0km/L、平均車速39km/h、走行時間5:45、EV走行距離115.1km(51%)、航続可能距離566km、外気温19度。高度14m。

白花のリンドウを育てていたのだが、うっかり水切れさせて枯らしてしまい、行く先々で探していたが、ここでも見つからなかった。昨年、一昨年あたりだとリンドウは色々な花色のものをあちこちのホームセンターに置いてあったのだが。

17:19にグッデイ 玉名店発。

17:37に自宅着。走行距離230.9km、燃費27.0km/L、平均車速38km/h、走行時間6:04、EV走行距離118.3km(51%)、航続可能距離564km、外気温18度。車の総走行距離23,950km。

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